生活をしていて必ず出てしまうゴミ。蟻が余分なモノを巣の外へ持っていくように、私たちも生活の中で不要になったものを袋に詰めて家から持ち出して捨てる。しかしながら、依然として捨てるという行為が何を指しているのかは分からない。分かっているのは漠然と綺麗にするという印象と社会システムに組み込まれた「捨てる」という行為だけであって、生活や感覚からは分断されている本質的な「捨てる」にたどり着いたことは私にはない。昨今のゴミ問題はこの話の延長線上に存在する予感があり、いま一度ものに関わることを問う必要があると感じた。決してごみを減らしたい訳ではなく、感覚的にモノを捨てたくなるまでの動機や思考が知りたいといったところである。
そんな中、九相図を見てとても感動した。色欲を捨てる工程に死を観察するといった一見不可解な行為を結びつけることで、現世は無常であると自分自身に何度も何度も言い聞かせる効果を生み出している。なお、人の身体が死後すぐに焼かれることで発生した距離感がかなりフックになっており、圧倒的なリアルの観察が際立つ経験となる。美女という表面的なバイアスを肉体が腐敗していく様から不浄なものと再認識する。これは情報の解体であり、新たなバイアスの構築である。やはり人間が完全な無に到達することは難しいが、近年の悟り世代と呼ばれる若者たちの多様性への適応と個と個の分断を強めている姿を見ると少しずつ変質化しているように思う。
また、物質としての肉体が内側から崩壊しはじめ、外部の蛆や野犬に啄まれたことで複雑な方向へ変化していく様は、あらゆる事物に通ずる観念であり、さまざまな問題において繋がりを意識し続けなければならない現状とリンクする。プロセスから離れた私達がもっとも知らなければならない部分ともいえる。
発散相物は観察することを前提とした現世を教訓としたオブジェクトである。ゴミとなった折りたたみコンテナの造形言語を踏襲しつつ、「捨てる」ということについて如何に考えるかを命題とした。この世が無常であるなら、私達の世界への認識はあべこべともいえる。
今回用いたコンテナは上下裏表逆であることを観察で気がつけた人がどれだけいるだろうか。この世はあまりにもゆったり流れていて常を意識してしまうようにできている。そんな中で細かな機微を繊細に感受できるのか。そのためには現状信じている鈍感な認識を一旦無視する必要がある。廃棄された姿のままの一番上のコンテナは実であり、それより下のコンテナは加工のプロセスを経た虚として存在する。それは死相(最上部)加えた九相図の解釈を踏襲した結果であり、全体を墓に見立てた墳墓相(全体)を帰着点にしている。
発散は時間の経過とともにテトリスのように上から重なり続けるコンテナから名付けた。それはこの世の複雑な方向へ矢印を向ける理に対する畏怖であり、あらゆることへ上塗りを続ける現代社会の浅ましさへの軽蔑である。重力に従って潰れてゆく造形に物質のエントロピーの増大をイメージし、最下層の潰れた造形以下に想像される0へ収束する分解の存在を暗示する。
私達が捨てたモノが本質的にこの世から消えることはなく、変質化した分子ですら元の物質だった記憶を内包する。このようなモノの分解と生産にどれだけ向き合えるのか。ゴミだったコンテナがまた作品を通過してまたゴミへ変化する。そんな不条理を受け入れるメンタルを通じて「捨てる」ということに少しずつ迫っていきたいと思う。