学び合う関係をつくる、これからの「教育とデザイン」とは?:第8回「みんなでクリエイティブナイト」

学び合う関係をつくる、これからの「教育とデザイン」とは?:第8回「みんなでクリエイティブナイト」

モラトリアムのための時間

西澤:それではこのあたりで、事前にいただいた質問にお答えしていこうと思います。

Q.大学では何がしたいかわからないモラトリアム学生がたくさんいると思いますが、そういった学生たちを、やる気にさせる手法をお持ちでしたら、お教えください。

学生をやる気にさせる。なかなか難しい質問ですね。祐馬さんからどうですか?

原田:いまは大学に入ること自体のハードルが下がってるじゃないですか。なので、もやもやしてる人たちはたくさんいて、それをモラトリアムと呼ぶのかどうかをそもそも考えないといけないなって、大学で教えていて思うんですよ。

西澤:祐馬さんは建築学生のときはどうだったんですか?モラトリアムだったのか、もともと建築好きだったのか。

原田:建築はめちゃくちゃ好きでしたね。いまだに愛読書は『新建築』ですから。

西澤:それはだいぶ好きですね(笑)。

原田:モラトリアムって、それぞれ興味のフォーカスができてないだけじゃないかなと思っていて。人と出会って話せば話すほど、なにかを発見していくような気がするんですね。興味を持って自分から動こうと思った人は、どんどんその輪が広がっていく。

また、僕はいつも大学で教えながら、学生同士が教え合える状況になると一番いいなって思っているんです。意外とだれかがつくったものに対して、他の子って意見を言わないんですよね。なので、授業では意見を言う場を積極的に設計するようにしています。自分の中ではそれが手法の一つかなと思います。

西澤:なるほど。ありがとうございます。伊藤さん、いかがでしょう。

伊藤:僕が社会に出たのは95年だったんですが、ちょうどWindows 95が出た年であり、インターネットがはじまった年。自分が大学3、4年生の時には、インターネットが来ることを『WIRED』を読んで知っていて、大学の図書館ではじめてインターネットに触れた時は「これはやばいな」と。自分が好きな映像を、ひょっとしたらこのメディアで表現できるかもしれないと、漠然と思ったんですね。でも、前例がないからわからない。それでもやもやしている。もしそれをモラトリアムというなら、超モラトリアムでしたよ。

だから、小学生から中学、高校、大学生の子たちって、言語化はできないけど未来は見えているんじゃないかなって、いつも思っているんですよね。なので、どうやってそれを潰さないかが大切です。働きはじめてからも、会社のことだけで100%の時間を使わない。自分の中でもやっとしている、モラトリアムのための時間をつくってあげることが大事だと思います。家に帰ってちょっと映像や音楽をつくるとか、そういう時間が大事だと思いますね。

西澤:一見無駄に見えることも、実は無駄じゃないと。

伊藤:そう。もやっとしてる部分を育むことで、5年後にそっちが主流になってると思うんですよ。僕は若い子にはそういう気持ちで接するようにしています。

これからの「デザインと教育」

西澤:今日のテーマである教育ならではの、おもしろい質問が来ているのでお答えしようと思います。

Q.保育士です。現場で活かせるデザイン、どのようなことができるでしょうか?
Q.デザイン教育は、恐らく高校、大学、社会人が中心と思われますが、小中学生向けのデザイン教育についてのお考え、何かお持ちでしたら教えてください。

僕も、幼児教育や小中学生ぐらいからのデザイン教育の可能性ってあるのかなと思うんですが、おふたりからお話聞いてみたいです。

原田:僕は、美術の授業の3分の1ぐらいを、デザインの授業にしたらおもしろくなるのになと思っていて。もしかしたら自分の時代からは大幅に増えているのかもしれませんが。

西澤:デザインがカリキュラムに入っていいんじゃないかと。

原田:美術の場合、たとえば絵が描けないというだけでその授業を諦めちゃうじゃないですか。デザインはそうではなくて、考えたことをどうやってかたちにするのかであったり、自分でかたちにしなくてよかったりもするじゃないですか。なので、そういった選択肢を早いうちに学んでおくことは結構大事なのかなと。

西澤:そう考えると、最近の小中学生向けのプログラミングの授業や、コードを書くというよりアプリを使ってパズルのように学ぶのも、デザインといわれたらそうですね。

原田:デザインですよね。そんな気がします。

西澤:伊藤さん、いかがです?

伊藤:神山まるごと高専の時にもよく説明するんですけど、砂場で山をつくることや、レゴのブロックを組み立てることとか、全部デザインなんですよね。なので、子どもって基本的にデザイナーなんですよ。お母さんがお弁当を詰めるのを手伝うとかも、全部デザインで。その時に、こうすれば美しいかなとか、このフォルムがいいなって、本能的にやってるはずじゃないですか。それが大人になるにつれていつしかやらなくなるんですけど、きっとどこかで覚えてるはずなんですよね。だからもう一度それを呼び戻すことが、神山の学校でやるべきことかなと思っているんです。

西澤:もうひとつ質問いってみましょうか。ざっくりしてますが、いい質問なので取り上げます。

Q.これからの時代は、デザイン目線から何を必要とされますか。

西澤:僕からお答えすると、専門的にデザイン教育を受けてきた中でも、得に意識的に学んだのは経営リテラシーですね。勉強していておもしろかったというのもあるんですが、大学院時代の先生が、デザイナーが読んでもおもしろいだろうということで紺野登先生の本を教えていただいたことが、はじめて経営についての本を読むきっかけだったんですが、そこから一橋大学の野中郁次郎さんなどの本を読みはじめたんですね。その時に、デザインと経営というのは一緒なんだなということを知って。デザインの目線から他のジャンルを見たときに、なにか学びがあると思ったんです。真っ直ぐ経営の勉強している人とは違う気付きを、デザイナー視点から得れるんじゃないかと。

原田:UMA/design farmの仕事の一つの特徴として、なるべく同じような仕事はしないように心がけています。あたらしい仕事の依頼をいただいた時に、「やったことないけど、やってみます」と手を挙げられるかどうかが重要かなと思っていて。自分たちのジャンルにはまらない状況を、なるべく自分たちでつくっていくことを積極的にやっていると思います。

伊藤:PARTYのデザイナーと話すときによく言うのは、グラフィックデザイナーだったら、逆にCGや3Dを勉強して、3Dでビジュアルを考えられるようになって、もう一度グラフィックデザインに立ち返るといった、次元を入れ替えて見るとおもしろいよ、ということですね。3Dデザイナーだったら逆にグラフィックを学んでみる。そうすると、自分が見ているビジュアル、もしくは普通の人が「グラフィックってこういうものだよね」と思っているビジュアルの期待を裏切ることができるので。そんな話をすることで、うちのデザイナーたちがCGの勉強をしはじめたりするパターンが結構あります。

西澤:それはすごく思いますね。グラフィックばかりやっているデザイナーと、Webとグラフィックを交互にやるデザイナーとでは、だいぶクオリティが違うなと思うので。やってみないとわからないことってありますよね。

伊藤:ありますね。祐馬さんはサインデザインをかなり手がけられていると思いますけど、あれって平面と立体、どちらの素養も必要じゃないですか。

原田:そうですね、まさに。

西澤:平面だけで考えている場合と、平面と立体を行ったり来たりできるデザイナーとでは全然発想違うなと思いますけど、どう思います?

原田:サインデザインって実寸じゃないですか。僕はそれがいちばんおもしろいなと思っていて。実寸であることと、素材についてちゃんと理解してデザインしていくことの楽しさがありますよね。うちの事務所は実寸が貼られまくってます。

西澤:うちも一緒です。看板のサイズとか、「実寸で見ないとわからない」ってずっと言ってます。

原田:まさに僕も同じことを言い続けてますね。実寸だからこそ理解できるし、そこから細かいところも一緒に考えることができるのがおもしろいなと思っています。

意見交換をうながす「髪切った?」と「なんちゃって」

西澤:チャット欄にも質問をいただいたので、お答えしたいと思います。

Q.クライアントさんにしても、スタッフにしても、安心して発言したり表現したり主張し合える居場所づくりをするために、意識していることがあれば、お伺いしたいです。

クライアントもスタッフも柔軟に意見交換できる場づくりのお話だと思いますが、たくさんスタッフを抱えている伊藤さん、どうですか?

伊藤:そうですね、僕はクリエイティブディレクターなので、ディレクターとしてなにか方向性を示すのが仕事とは言われますけど、僕は基本的に最初から示すことはあまりないですね。どちらかというと司会者のような役をやる方が重要だと思います。

西澤:あ、わかります。

伊藤:クリエイティブディレクターには司会がうまい人ってたくさんいますよね。スタッフの意見を引き出すというか。Zoom会議でも、ずっと司会者をやってます。

西澤:「髪切った?」みたいな(笑)。

伊藤:そうそう。「髪切った? 俺も切った」みたいな(笑)。そんなことをやってますね。

西澤:祐馬さんは、どうですか。

原田:僕も司会みたいなことはやりますね。それと、ちょっとおもしろい空気だったり、外してもいい雰囲気づくりみたいなこともかなりやっています。

西澤:それはクライアントワークでも?

原田:はい、まったく変わらないです。クライアントさんが冗談を言えたり、「なんちゃって」って言っても大丈夫な状態にしたいですね。

西澤:クライアントワークでなんちゃってが言えるって、相当打ち解けてますよね(笑)。

原田:やらないですか?

伊藤:むっちゃやりますよ。わざとそういう悪ノリからはじめてみたりして。

西澤:だいぶ有段者ですね。

原田:そうすると何を言ってもいいんだなっていう空気が流れますよね。

西澤:僕らがクライアントワークで意識してるのは、クライアントも同じように意見を出せるようにすることですかね。デザインのアイデアなどを、僕らが出してくれるものだと待ってる方もいるので。ブランディングは当事者意識がとても大事なので、「僕らも案を出しますが、みなさんも一緒に出しましょう」みたいな感じで、一緒につくっていく仕組みや進行は意識します。

原田:「そのアイデア、いいな」ってお互い言い合える状態が一番気持ちいいですよね。

西澤:そうそう。コンセプトとか、たまにクライアントに負けることがありますから(笑)。

原田:ネーミングとかも負けるときありますよね。こっちでいいじゃないですかって(笑)。

当たり前のルールを疑う

西澤:次の質問にいきましょう。

Q.これからは、答えをより早く正確に解くことよりも、自ら課題を探し出して、解決する力が求められていると考えているのですが、残念ながら今の学校教育は、知識の詰め込みばかりで、考える力を養えないように思います。デザイン活動を通して、子どもの力を育む何かよい方法はないでしょうか

いい質問です。学校教育はたしかにそうですね。うちの子どもはいま受験生なので、ひたすら勉強してますけど、問題を解くトレーニングとしてはやった方がいいかなとは思います。でも、その後自分で人生設計するときに、自分がどの道に進んでいくのかを考えていく力は大事だろうなと思いますね。意識されていることはあります?

伊藤:たとえば、「なんで国際線は搭乗の2時間前に空港にいかなきゃいけないんだろう?」とか、ひとりごとのようにルールを疑うようにしていますね。「このルールはおかしい」じゃなくて、「なんでだろう」という投げ掛け。「またおかしいこと言ってる」とか思われたりしますけど、僕はいつもそんなことを言うようにしてますね。

西澤:クリエイティブディレクションの極意っていう感じですね。当たり前を疑う。

伊藤:そうそうそう。とぼけるというか。否定はしなくて、「なぜ2時間前なんだろう」とぽつんと言う。そういう感じのことを、日々会議でも言います。

特にデジタルの場合はそうかもしれないんですが、アプリなどにおいては、ものごとのルールを体験によって変えることが大事なんです。たとえば、ポケモンGOの登場以前と以降とでは遊び方のルールが変わったわけじゃないですか。それはルールを変えることの提案や問い掛けであり、デジタルにはそういったパワーがあると思うんです。そういったことをやるためには、ただルールに縛られていてちゃ駄目なんですよね。

西澤:なるほど、ルールを疑う。おもしろいですね。祐馬さん、どうですか?

原田:大学の授業で、川で水を汲んできて、ろ過装置を作って、飲んでみるという授業がありました。目の前に流れている川が、ただきらきらと水が流れているとしか思っていなくて、あんまりその水にフォーカスされていない。

その授業では、リサーチして、自分たちでろ過装置を設計してつくることが中心だったんですが、それがすごくおもしろくて。水質調査をして、ちゃんとチェッカーを使って調べながら、飲んでも良い状態までろ過してみると、当たり前ですがちゃんと飲める水なんですよね。いろんな先生に飲んでもらっても、「これうまいな」って言うんですよ。「これ、鴨川の水なんですよね」って写真を見せたら、「次の年からその授業やらんといて」ってなったんですけど(笑)。

でも、すごく当たり前のように見えている風景の中で見逃していることってたくさんあると思っていて、それをちゃんと見直すことって、デザインを考える上で大事だと僕は思うんですよね。

西澤:おふたりとも、前提や当たり前を疑うことが、デザインやクリエイションの根っこだということで共通していますね。

次の質問にいってみます。ディレクター、プロデューサーで、IT関係の女性の方です。

Q.学生時代にデザインを専攻していて、デザインコンペなど、学外での力試しを勧められました。伊藤さんや原田さんは、コンペ審査員をされてると思いますが、デザインコンペをはじめとした学外での力試し、実績作りについてどうお考えでしょうか?

西澤:選ぶ側からどう思いますか?

原田:僕が唯一グラフィックデザインで教えてもらったのが、グリコや牛乳石鹸のロゴをつくった奥村昭夫さんなんですが、以前先生に「自分でつくったものを誰かに評価してもらうことにどういう価値があるんですか?」って聞いたことがあって。その時に奥村先生に言われてなるほどと思ったのは、「あのな、賞を取って邪魔になることはないから」という答えでした。邪魔にならないんだから、チャレンジはした方がいいという意味だと思うんですけど、チャレンジすること自体に価値があって、勝ち負けにはそんなに重要じゃない。なので、コンペや賞などには、どんどん応募していったらいいんじゃないかなと思います。

西澤:学生時代は結構コンペに応募してたんですか?

原田:建築のコンペは友達とチャレンジしてましたけど、なかなか勝てなかったですね。出すたびに「やっぱり勝てないなぁ」と思っていたので、応募すること自体に疑問を感じていたのはあったかもしれないです。

西澤:なるほど。伊藤さん、どうでしょう?

伊藤:一つの学校で学んでいると、毎日ほとんど同じ人といるわけですよね。自由にチームを組んでいい場合、毎回仲のいい子たちと制作することになる。すると、気づいたら決まった人としか一緒にものをつくっていない状態になっちゃうんですよね。コンペって、たとえば大学も違えば、専門も全然違うような人たちが同じチームとして応募できたりするじゃないですか。僕はTOKYO MIDTOWN AWARDのデザイン部門の審査員をやっているんですが、最近は大学混合の学生チームとかいるんですよ。

西澤:最近はそんな感じなんですね。

伊藤:結構いるんです。同じ大学のチームもいるんですけど、やっぱり混合ならではの異種格闘技感というか、畑違いだからこそ生まれる距離感とかがあるんです。頑張って話し合ったんじゃないかな、みたいな痕跡が感じられて、それこそが学びだと思うんですね。賞が取れるかはどうでもよくて、メンバー同士でバトルになったりするプロセスが大事なので。畑が違うもの同士でできるのはアワードのよさだとは思いますね。

中川政七商店・中川淳さんからの問い「センスってなんでしょう」

西澤:ちょっと、いま、チャット欄を見てたら中川政七商店の中川淳さんから質問が……!これ、本物かな?

原田:偽物とかあるんですか(笑)。

西澤:「センスって何ですか?」という質問。イヤな質問放り込んでくるなぁ(笑)。中川さん、神山の学校で教えられるんですよね?

伊藤:そうですね。センスって、なんでしょう。

原田:お願いします(笑)。

伊藤:いやいやいや(笑)。

西澤:難しいな……。センスは、経験したものの総体なんだろうなとは思いますね。天才的なひらめきとかではない気がします。積み重ねてきたものから出てくるなにかであって。

僕はデザインの中でも言語化できるのはあくまで一部だと思っていて。僕はかなり言語化マニアなので、意識的にデザインの勘のようなものを言語化するんですけど、言語化できるのは1、2割ぐらいなんじゃないかなという感覚があります。これまでに経験した、澱のように積み重なったものが自分の土台になっていて、反射神経のようなものになっている感じがあります。それがセンスなのかな。

原田:たしかに、反射神経っていうのはわかりますね。研ぎ澄ます感じは僕もあるなと思ってて。自分の感覚や他者の感覚みたいなものを、どう研ぎ澄ましていくかみたいなことをいつも考えています。いままでの経験から、いちばんよくなるのは「目」なんじゃないかなと。

西澤:いい表現ですね。

原田:目に見えるものの解像度が上がれば、世界が変わって見えるような気がするんです。高い解像度でものを感じられるようになると、あえて低くしてみたりすることもできますよね。それを選択できるようになることが、センスかなと思います。

伊藤:第六感をシックスセンスっていうぐらいなんで、センスは感覚ですよね。感覚って、本来は言語化できないと思うんですよ。特に学生のうちはうまく自分の感覚は言語化できないと思います。

西澤:そうですよね。

伊藤:学生と話すと、「あのとき先生に否定されちゃったんで、私はそのセンスないと思います」って言い方をされるんですよ。僕が否定したわけじゃないんですが、ある人に言われたからって、それにフタをしちゃうんですよね。

西澤:自分で言っちゃうんですね。

伊藤:センスって本来言語化できにくいものだから、プレゼンとかでも自分のデザインを説明する言葉って出てこないものだと思うんですよ。なので、温かい目で育んであげる必要がある。言葉にならない、その人が持ってる芽みたいなものを。それが咲くまで待ってあげるっていうのが大事。

美大のデザイン課題でも、成果物に対して僕はほとんどなにも言いません。つくっている様子をみて、プロセスに対してなにか言うんですよ。学生の成果物はその人の完成品でも何でもないんだから、否定は絶対にしない。否定するとセンスが潰れちゃうんです。僕は教育者としてそのことを心がけてて、「君はこの努力がすごい」といった言い方で、プロセスに対して極力ほめています。

西澤:芽が出るまでの土壌みたいなものですね。

伊藤:たとえば、美大で課題を全然やらない子とかいたんですよ。

原田:いますね。全然います。

伊藤:学校が嫌でね。もし、その子にふざけんなって言ったら、多分来なくなって退学しちゃうんですよ。その子、全身青い服を着てたんですけど、「なんで青好きなの?」って話ばっかりしてたんです。そしたら、そのうちに作品が青くなってきて。「先生、私青について考えてきました」って。

原田:いいですね。

伊藤:彼女は、青に対して言葉にできないセンスがあるんですよね。それを待ってあげないと、彼女のセンスが潰れちゃう。そういうことなんですよね。そしたら最後、その子はむちゃくちゃいい青の作品をつくったんです。

西澤:すごい。

伊藤:本当にそういうことってあるので。

政治のためにデザインができること

西澤:ちょっと難易度が高い質問に行きますね。

Q.教育とデザインの先には、社会や政治があると思っています。みなさんは、特に日本の政治についてどう思われますか。とてもクローズドな政治の世界を、デザインの力は変えることなどできないのでしょうか。

西澤:40歳代、大学生のファッションデザイナーの方ですね。難易度高いですね。でも、伊藤さんがやっている学校をつくるというのは、政治的なことでもあると思っていて。

伊藤:まさに。

西澤:僕らがイベントをやっていることや、本を書くことは、わりと自己発信の延長にあると思っているんですが、学校の場合はそうもいかないと思います。かなり公な存在なので。神山まるごと高専の話も含めて、伊藤さんには政治の話を聞いてみたいなと思います。

伊藤:おっしゃるように、教育は政治の一つだと思っています。以前経産省との仕事に携わったことがあるんですが、政治家の方と一緒に法案を通すため提案を考えたり、なかなか大変でしたよ。立法・行政・司法の三権の外側で芽を育てていくのが教育だと思いますが、それは政治にかかっているし、つまりはデザインの文化を育てていくことになると思うんです。

西澤:文化ね。

伊藤:もちろん、官僚の方と一緒になにか政策を考えるのも一つのやり方だとは思います。でも、僕の場合は10年間大学で教えてきて、多分何千人っていう生徒がいるんですよ。その人たちが世界や日本中に散り散りに存在している。こんなにいいことってないですし、きっとそれぞれ芽が出るわけですよね。これはある意味で政治だと思っています。

西澤:デザインの種をいっぱい世の中に蒔いていく、そういう政治ですね。祐馬さん、どうですか?

原田:もっとデザイナーと政治家がつながるといいなと僕は個人的には思っていて。政治家の人って、あんまり会ったことないですよね。あります?

伊藤:あんまりないですね。

西澤:ないですね。それにショックだったのが、震災の時や今回のコロナの際に、有識者としてTVなどのメディアでデザイナーが話しているのを見たことないんですよね。社会と関われてないなと感じてしまって。

原田:僕らって、翻訳することが仕事でもあるじゃないですか。政治家の人たちがテキストで表現したビジョンやマニフェストをビジュアル化することに関わることに、本来僕らの仕事が求められるはずなんですけど、そもそも政治家がどこにいるかがわからない。僕らとあまりにも距離が遠いなと思っていて。本当は、社会がもっと政治家の人にエールを送れる状態に変わると、若い人たちももっと政治に興味持つのかなと、最近はぼんやりと考えているんですね。

西澤:政治家の人が、もっとクリエイターと一緒に発信したり、政策立案をしてくれたらおもしろいなと思いますね。いまは自分が票を取れるかどうかといった、勝ち負けや損得といったしがらみの中で政策ができていることが透けてみえる。コロナ禍という非常時において、そんなことよりもびしっとコンセプトを立ててくれよというのはありますね。

デザイン教育は学び合う関係づくりへ

西澤:最後に、恒例の締めとして、今回のテーマ「教育とデザイン」について、登壇いただいた方に一言ずつお話しいただければと思います。

言い出しっぺの僕からいきますね。今日お話を聞きながら考えていたんですけど、僕はデザイン活動の中で常にアップデートや成長することを求めていて、スタッフにとってもそのほうがいいと思っています。なので、教育とは生きることだと言いたいですね。世の中は常に変化しているので、教育は教えてもらうことではなく、サバイバルだと思っています。

たとえば、ブランディングデザインは注目される分野にようやくなってきていますが、たぶんすぐに変わると思っているんですよ。それに対して、自分のやりたいことをきちんとアジャストしていく活動がめちゃくちゃ大事で。そのためには、自分のブランディングデザインをもっと世の中に役立てるために、常にアップデートし続けないといけない。それはすなわち、生きることなのかなと。多分、生涯学び続けるのかなと思いますね。

伊藤:いいですね。僕、自分のことを教育者だって先ほど言ったんですけど、ちょっと恥ずかしい感じはあって。なぜかというと、人に対して教えているっていうふうには思ってないんですよ。先生と生徒っていうのは、ただでさえ権力の非対称性があって、教える側が偉くて、教えられる側は先生を敬わなきゃいけないみたいなことが、昔からありますよね。先生の言うことは絶対だなんてことはまったくなくて、先生が正解だとは限らない。非対称性がある限り先生と生徒は近づけないし、学生が本気でやる気を出してデザインしようとは思わないんじゃないかなと。

僕も教えはじめた頃は強く出てた部分もあって、多分非対称性があったと思うんですけど、生徒たちが伸びないなと思いはじめたんです。それ以来、教育というのは自分が教わることであり、自分が育つことなんじゃないかと感じています。たとえば、「いまゲームとかアプリってなにやってんの?ちょっと教えてよ」って聞いてみると、全然わからないんですよね。なので、「どういうゲーム?」って話を聞いてみて、そこから「じゃあUIについて考えてみよう」とか、そのゲームのどこがいいのか、どのあたりがやりやすいのかといった話をするんです。その時点では僕はゲームのことを教わっているんですよね。僕の授業はそんな感じでやっています。

原田:答えをとられちゃったなと思ってるんですが(笑)、僕も発見し合えることが重要だなといつも思っています。たとえば、最近こういうのおもしろいよねって話をする時に、それに対して生徒とディスカッションできる関係をどう築けるかがすごい大事だなと思います。昔教えてた子には、「原田さん丸くなりましたね。優しくなりました」ってよく言われるんですけど。

西澤:昔はもっと尖ってたんですか?

原田:「踊るナイフ」って呼ばれて怖がられてましたから(笑)。いまは一緒に話せる環境をどんどんつくっていかないといけないなと思っていて、それは仕事ともかなり近い感じがするなと思います。自分自身が学生とコミュニケーションをとることで変わってきているというのはありますね。デザイン教育はトップダウンな感じに見えるんですけど、もっと並列な感覚が僕の中にはあります。

西澤:教える側、教えられる側っていう考え方も、きっと自分たちの中で刷り込まれている「あたりまえ」だったのかなって思います。神山まるごと高専は、そのことを意図的に崩しにいっているのが学校として新しいですよね。祐馬さんが行ってたインターメディウムもそうだと思うんですけども、ジャンルを横断させるっていう取り組みは僕の母校もそうでしたが、学び合いの関係も混ぜていく感じがますます楽しみです。

今日は「教育とデザイン」というテーマで、三者三様のおもしろい話をさせていただきました。ありがとうございました。

写真:松田瞳(エイトブランディングデザイン)文:堀合俊博

【教育とデザイン】教育とデザインの関係や可能性を考える〈みんなでクリエイティブナイトvol.8〉