幸福の解体新書『VS ウェルビーイング/エンドレスウェル 終わらない幸福』

読者のみなさんごきげんよう。ランニングホームラン株式会社 CCO(Chief Concept Officer)のさわくんです。このコラムでは、巷にあふれている幸福にまつわる言葉と格闘し、その本質を疑っていく。それにより、幸福のクオリアに対する解像度を上げ、ひいては本質的なクリエイティブを生み出す力を高めることがコラムの目的だ。
本日はVS「ウェルビーイング」。幸福の代名詞であり、ツッコミの余地のなさそうなこの概念をぶった斬ってみようと思う。
かつて高度経済成長期には、「産めよ増やせよ」と次々にモノを生み出し、お金を儲けた。「24時間働けますか?」を標語に寝る間も惜しんで働いた。物質的には豊かになったはずなのに、精神的にはどこか豊かさが失われていやしないだろうか。
そうした時代が終わり、失われた何十年に突入したいま。物質的な豊かさに待ったをかけ、現代の価値観を代弁するかのように現れたのが「ウェルビーイング」という概念だ。
・身体的・精神的・社会的に良好な状態であること
・短期的な幸福だけでなく、将来にわたる持続的な幸福を含むこと
・経済的指標だけでは測れない、物質的な豊かさを超えた人々の豊かさや満足感を測る指標として注目されていること
ChatGPT先生にお伺いすると、上記のような意味合いがこの言葉には含まれる。資本主義の行き過ぎたこの世界に待ったをかける、批判の余地のないとても素晴らしい概念を今回は解体していこうと思う。
ウェルビーイングを解体するヒント、それは「ウェルビーイングという概念がとても資本主義的」という点にある。「資本主義のアンチテーゼから生まれた概念が、資本主義的である」という矛盾がなぜ生じるのか、その答えに迫っていこうと思う。
基準なき基準、あるけどない基準
風呂上がりのポテチとコーラ、これを食すのが筆者(さわくん)にとって至高のひとときだったりする。主観的幸福度はマックスであるはずなのだが、おそらく「ウェルビーイング」という概念からは程遠いように思われる。
むしろ、ウェルビーイングという概念に触れてからどこか後ろめたい気持ちがよぎるようになったのは気のせいではないだろう。幸福の概念は人それぞれといわれているのに、そこにはなぜか基準があるように感じる。その基準を探ろうにも曖昧で困った、という気持ちにはみなさんも覚えがあるはずだ。
・身体的・精神的・社会的に良好な状態であること
・短期的な幸福だけでなく、将来にわたる持続的な幸福を含むこと
・経済的指標だけでは測れない、物質的な豊かさを超えた人々の豊かさや満足感を測る指標として注目されていること
冒頭で示したウェルビーイングに関するこの説明は、基準として存在しているように見えて、実はその基準を示せてはいない。「身体的に、精神的に、社会的に良好な状態である」とは何がどうあれば良好なのだろうか。
将来にどの程度持続的に幸福であればいいのか。その際に、何が持続していると幸福なのか。経済指標で測れない幸福は、何で測ることができるのか。
もう少し、疑問を具体的にしてみよう。私はあと何回瞑想すればいいのか、あと何回健康食を食べればいいのか、あと何回嗜好品を我慢すればいいのか、何人と持続的な関係性を築けばいいのか。どこまで行けば私は「善い」のだろうか、それがどうしてもわからない。
にもかかわらず「ウェルビーイング」という概念はそこに燦然と輝き、より「善い」を目指すことを推奨しているように感じる。いや、感じ続けてしまう。
ウェルビーイングに終わりはない
そう、ウェルビーイングは基準が曖昧な上に終わりがない。どこまで行っても私の「良心」にとって「善い」と思えるまでそれは終わることができない。むしろ、それを求めれば求めるだけいまに満足をすることはできない。「より善い」に向かって、どこまでも追い求めてしまう。
それもそのはず、ウェルビーイングを分解すると「WELL(善い)」「BE(在り方)」「ING(続く)」となる。ゴールはなく、続けることそのものに目的があり、かつその基準は漠然と社会の共通のモノとしてあることだけはわかっている状態。
向かう方向はよくわからないのに邁進することが奨励される。ウェルビーイングは優しいように見えて、実はとてもマッチョな概念なのだ。
幸福を儲けるという矛盾
思えば、まだ「経済成長」が絶対的な基準だった時、人々の心の動きはどうなっていたのだろう。お金儲けに終わりはないし、基準もなかったと思う。いくら稼いでもそこに「もう大丈夫」はなく、より良い家を、より良いブランドを、より良い車をと、どこまでも際限なくお金を貯めては消費してを繰り返していたのではないだろうか。
「経済成長」を生んだ資本主義を言い換えるならば――「曖昧な絶対的指標を追い求め続ける、終わりのない旅」だと思う。全員が追い求めていると錯覚するために道を逸れることは許されない、過酷な旅路だ。そう捉え直すと、ウェルビーイングと資本主義は親友といっていいほど相性が良い概念ではないだろうか。
お金もウェルビーイングになるための積み重ねも、手段にすぎないはずだ。だが、実践しているうちにそれそのものが目的化し、本当に求めていたものを忘れてしまう。
そこに、本当の幸福はあるのだろうか?
処方箋:自分にとっての「善い」を定め、いまを楽しめ
ウェルビーイングには基準がなく、曖昧だ。一度求めたら最後、求め続けなければならない枷となってしまう。それはある意味「お金を儲け続けなくてはいけない」資本主義の構図とかなり酷似している。故に、ウェルビーイングを願えば願うだけ、いつまで経っても終わらない旅路を歩み続ける羽目になってしまう。そんな状態はウェルビーイングであるとはいえない。
ここまでは、そうした矛盾を示してきた。では、どうすれば本当の意味でウェルビーイングたりえることができるのか。私からの処方箋は、
『自分にとっての善いを言葉にし、いまを楽しむ』
ことを示したい。
結局のところ、お金儲けもウェルビーイングの追求もなぜ不安がなくならないかといえば、基準がない、あるいは基準が社会や他者などの外側に置かれてしまっているからだと私は思う。
社会や他者に基準を置く限り、それは確認不可能となり、際限がないモノとなってしまう。結果、いまを肯定することができず、未来の「善い」に向かって自分を追い込んでしまうわけだ。あの漠然としたポテチやコーラを摂取することに対する後ろめたさも、この確認不可能性(でも、善くならなければいけないという不安)から生じていたといえる。
逆にいえば、自分にとっての「善い」を定めれば、その基準のコントロールは自分のモノとなる。そうであれば、その基準は確認可能となり、どこかで「もう善い」と幸福追求の旅路を終えることができるはずだ。
いま、目の前のポテチを「うまぁっ!」と美味しがることができるか。罪悪感や「善い」など関係なく、それを享受できているか。「善くなる」とはきっと「善くなり続ける先」にあるのではない。「何であれ、私はこれで善いのだ」と、エンドレスウェルの旅路を終えた時にあるのだと私は思う。
まとめ
以上で「ウェルビーイング」の解体ショーを締めくくろうと思う。曖昧な「善い」はいまの自分を肯定することを許せなくさせ、むしろ「善い」状態から遠ざけていく。矛盾がわかったのではないだろうか。
ブランディングやクリエイティブに携わる人へのTipsも、最後に一つ提供しておこう。「ウェルビーイング」という言葉を安易に使ってしまう時、クライアントにとっての『「善い」とは何か』に踏み込めてない可能性が高い。それは結果的に、クライアント自身が積み上げるべき企業価値から遠ざかっている可能性がある。もう一歩、クライアントに踏み込もう。それがきっと、クライアントとあなたにとって幸福なクリエイティブを生み出す契機になるはずだから。
以上、本日も対戦ありがとうございました。