デザイナーのこれからのキャリア

デザイナーのこれからのキャリア
第3回:松徳硝子 クリエイティブディレクター 齊藤能史氏

構成・文/神吉弘邦
写真/真鍋奈央

2015/09/04

Vol.2「要はデザイナーという肩書きにこだわらなかったんです」

齊藤氏のデザイナーとしての歩みは、グラフィックデザイン。それが、どのようにして今の仕事へとつながったのか。北海道出身の齊藤氏が、東京でデザイン業界を志すきっかけとなった出会いへと話は進む。

松徳硝子 商品画像 (1)
松徳硝子 商品画像 (2)
松徳硝子 商品画像 (3)

小島:齊藤さんがデザイナーになった理由をお聞きしたいのですが、つくることがそもそも好きだったのですか?

齊藤:僕は絵が上手いからデザイナーになったのではなく、中学・高校の頃、地元の函館では遊んでばかりいたんです。ずっと野球をやっていたし、その後は、バンドやDJなんかもやっていました。函館の有名な進学校に入ったものの、入学後は全く勉強しないので、常にドロップアウト寸前。街の音楽好きが集まる場所なんかに入り浸っていました。当時の仲間は、今も付き合っているいい奴らなんですけどね。

高校は退学こそ免れましたが、大学受験は当然ながら全滅。だったらやりたいことを探そうと、世の中のことを調べました。「職業辞典」のような本で引っ掛かったのが、MD(マーチャンダイジング)という仕事。そこには「商品企画」と書いてある。企画という言葉にピンときたんですよ。高校生が仲間でイベントをやったりするのも、企画のひとつじゃないですか。自分はそういうのが好きだし、向いているかなと。

大学に入る頃、商品企画や広告宣伝とデザインというのが密接していることを知りました。デザインを、ダブルスクールで学ぶか、アルバイトか何かで学ぶかで迷いましたが、ある展覧会に行った際、現代美術をやりながらグラフィックデザインをされている方と知り合えたんですね。その方にお誘いいただき、事務所に遊びに行くことが出来ました。それから通い詰め、アシスタントとして認めていただき、雑用から僕のキャリアがスタートしました。クライアントがレコード会社やアパレルメーカーの宣伝部の方だったりして「職業辞典に出てた人たちだ。カッコいい!」と(笑)。

彼らは「発注する自分がデザインをするわけじゃなくても、デザインは勉強しといた方がいい」と教えてくれて。知識がないとディレクションもできないと言われ(当時はディレクションという言葉は知りませんでしたが)デザインをさらに勉強し始めたんですね。

小島:大学の勉強どころではない感じ(笑)

齊藤:そう!(笑)仕事が面白くなって大学は半年で辞めてしまい、基礎からきちんと勉強し直そうと思い、デザインの専門学校に入り直したんですよ。卒業後、「クライアントと直接やり取りしている会社」という条件で探して、グラフィックデザイン会社に就職しました。このときの経験は、今も生きてると思います。クライアントが中小企業さんだと社長が直接「こういうものをつくりたい」と出てらっしゃることも多いじゃないですか。そこでその方々から、経営やビジネスのことを教えていただいたんですね。直接話が出来るから、制作物の結果がきちんと分かるのも面白かったし。

ただ、ここはデザイナーとして重要なところなんですが、最後にデザインをジャッジするのは、あくまでクライアントであるお客様なんですよね。デザイナーではないんです。デザインに携わる人は誰もが経験していると思いますが、「これが本命のデザイン案」というのを見事にスルーされたり、A、B、C案のところどころをツギハギで採用されたり。自分の力量不足ということもありますが、それぞれ意味合いを持たせているデザインなのに、そんなことされたらどんどんおかしくなってくる。

まぁ、たまに良くなることもあるんですが…デザインの意図が伝わらないことがストレスになったというか、ジレンマを感じていたんです。そのうち、自分はクライアント側にいかなくてはいけないと思いはじめたんですね。

―新潟・燕のナイフメーカー、GLOBAL(ヨシキン)への転職
松徳硝子 工場の様子 (4)
松徳硝子 工場の様子 (5)

齊藤:採用されたばかりでの仕事は宣伝広報的なものでしたが、そのうち商品企画にも携わらせてもらえるようになり、ものづくりって楽しいな、と実感しました。ただ、GLOBALのときに企画開発した製品も、その多くは、既にある程度のブランドという枠組みがあるなかで、取り組んだものなんです。例えば、フルーツカッティングに特化した「バーテンダーナイフ」というプロ向けのナイフも、それまであったGLOBAL-PROシリーズのひとつとして企画開発してますから、ゼロから開発したものではないし、「こういうアイテムがこういうシーンには必要だろう、ニーズもあるはず」と考えて、編集的に開発した製品なんです。

小島:新参者が入るには職人の世界はなかなか閉鎖的だと思うのですが、現場にはどうやって入っていったんですか?

齊藤:確かに、閉鎖的な所が多いですよね。(笑)ただ、お酒を飲みながら自分がする男くさい話は、職人さんとウマが合うことが多いんですよ。特に、当時の工場長にはとても可愛がっていただき、ものづくりのことを一から教えていただいたりしましたね。最初は、何かにつけて、現場の方々と「包丁も研げないのに生意気なことばっか言いやがって」といったやり取りもありました。ただ、製造現場と企画サイドの衝突は、どの世界にだってある。僕はそもそも料理をするのが好きでしたし、負けず嫌いなんで、「じゃあ、やったるわ、研ぎ方教えてくださいよ」と懐に飛び込みました。その後、「おっ、やればできるじゃねえか!」みたいな感じで、扉が開いていきました。要は、デザイナーという肩書きにこだわらなかったんですね。

小島:なるほど、デザイナーはどうしても立ち位置にこだわってしまうところがあるけれど、齊藤さんは肩書にこだわらなかったんだ。

齊藤:そう。デザイナーがキャリアを考えるときに「まずはアートディレクター、お次はクリエイティブディレクター」とステップを踏むのにこだわらなければいいんです。デザイナーで職を探すから可能性が狭まるのであって、宣伝部にだって、営業企画部にだって、デザインの仕事はありますから。僕はさまざまな担当職務内のひとつとして、自分でデザインをやるという具合に思っています。

松徳硝子 クリエイティブディレクター 齊藤能史氏
―キーワードは「企画」。齊藤氏の心がけと勘どころ

齊藤:自分の場合、それは「変に色を出さない」ということに尽きますね。ここは要らないというものがあれば削るし、既存のソースに可能性を見いだせるのであれば、その再構築で構わないと思います。商品開発やデザインをするうえで、アーティスト性にこだわる人もいるかもしれませんが、僕は自分のクレジットなんて出なくても十分満足です。

そんなことより、飲食をよりおいしく楽しむための様々な製品を企画し、それを職人とのやり取りでつくりあげ、スピーディーに世の中に送り出したい。GLOBALはモノ作りメーカーとして大きな会社だったのと、自分の力不足もあり、それが十分にできなかったんですね。

最終的には東京営業所長も任せてもらえていたんですが、給料も大事なんだけど、それだけじゃないなと…。こうした悩みを抱えつつ、過労もたたり、体調を崩したりもしていました。

松徳硝子の社長と出会ったのは、廃業するかどうか悩んだ末、継続すると決断されてしばらくたった頃でした。廃業寸前に陥った経緯を聞いて、元々がうすはりのいちファンでしたから、色々と社長の相談に乗っているうちに、特殊な形ですが、ボランティアで、デザインやブランディングのコンサルとして松徳硝子に携わり始めました。その活動を通じ、職人たちはものづくりや仕事に本気で取り組んでいるし、会社としての伸びしろも感じたから、まだまだいけるんじゃないかと。ものづくりというのは、いきなりホームラン級の商品が生まれるわけではありません。でも、これまで以上に、自分が携わることで一緒に収益を上げていく仕組みがつくれれば、みんなでいい思いができると直感したんです。

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INDEX

「やったのは、元からあったものを生かすことだけ」

VOL.1

「やったのは、元からあったものを生かすことだけ」

「要はデザイナーという肩書きにこだわらなかったんです」

VOL.2

「要はデザイナーという肩書きにこだわらなかったんです」

「線を引く前に現場へ入れ」

VOL.3

「線を引く前に現場へ入れ」

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