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この展示会では、3名の日本人アーティストが作品を展示していました。彼らのアートをご紹介します。
まず、Motoi Yamamoto氏の“Labirinto”
この作品は“塩”で作成された迷宮で、コンセプトが説明されていなかったのですが、塩は、海からもたらされる生命の源泉。その源泉から進化の迷宮を進んだ末に我々がいる、というように私には感じられました。ただ、心無い人によって作品の一部が壊されていたことは残念なことです 【写真 4〜6】 。
次にご紹介するのはAtsushi Oya氏の“MoMo”(Luce del vento)
これは布を内部から風によって膨らませ、またその中に照明と“羽”があり、風が吹くことによって“羽”が舞うようになっているものです。私はなんだか“桃太郎”をイメージしてしまいました 【写真 7〜9】 。
最後はHiroshi Suzuki氏の“Four seasons"です。
これは、映像を投影してその映像がそれぞれの季節のイメージを写しているものです。季節の移り変わり=時の流れ、ということでしょうか 【写真 10〜12】 。
さて、今回私がこの展示会をご紹介したのは、展示されたアートそのものやハンディキャップを持っている人についての考えからではなく、もう少しデザインそのものに近い話をしたいと思ったからです。
まず初めに、“障害を持つ人たち”というキーワードから考察していきたいと思います。Lino Brundu氏のコンセプトの中でも触れられていますが、“違い”という言葉から、“差別”という意識に繋がっていきます。しかし、この“差別”と言う言葉は、“区別”ということと、それほど変わらないものでは? と、思うのです。
辞書を開いてみますと、“区別”とは2つ以上の物事の間に認められる違い。また、その違いに基づいて分けること、と、ありました。では、我々の生活の中で“区別”なしで物事がすべて同一なものなのかと考えてみますと、もちろん、そのようには成り立っていないことは明らかです。そして、もうひとつの言葉の“差別”。これは、差をつけること。分けへだて。主観的な価値判断に基づく異なった扱い、と、辞書に書いてありました。
それらを踏まえた上で、デザインという事柄に目を移してみますと、デザインは、“区別”や“差別”という要素の中で、極端な言い方をすれば、それらだけで成りたっているようにも思えます。
例えば、某有名デザイナーのレモン絞りは、ある人にとっては非常に美しいラインで価値のあるものとして見えますが、別のある人から見れば、とても使い勝手が悪く、形も「虫」のように見えて気に入らない、という人もいるでしょう。つまり、あらゆるものは、その各人の主観的な価値基準で判断されているのです。そのような“区別”や“差別”は至る所で行われ、我々は生活の中で、その各人の判断をもとに、物を選んで購入しています。
しかし、大衆心理の中には、他の人と違うものを持ちたいという願望と同時に、他の人と同じでありたいと思う気持ちもあり、大衆は相反する心理を持ち合わせているといえます。誰もが良いと言うものを自分も持ちたい、と思う大勢の人たちがいるのです。そういう意味においては、大衆はまことに自分勝手で難しい心理を持っているともいえます。
私は、デザインとは、多数派の意見に与するような行為であってはならないと思います。デザインとは、先にも記述した某有名デザイナーのように、その人の“色”を推し進めることもひとつの方法でしょう。また、それだけではなく、先の時代を予測し、または自分が望む次の時代を創造することもデザイナーの大切なスタンスだと思います。
ただ、デザイナーが、新たな時代への向けての創造物を苦労して産みだし、それが見たこともないような画期的な提案であったとしても、大衆は次第にそれらに馴れていってしまいます。そして、また別の新たなものを欲求していく。大衆は、とてもお腹をすかせた怪物なのかもしれません。
※編集部より ──
佐藤 充氏による「3.5次元のMILANO」は、今回が最終回となります。長期にわたるご支援、誠にありがとうございました。
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