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佐野陽一
SANO Yoichi


[ 略歴 ]
1970   東京都練馬区生まれ
1994   東京造形大学造形学部卒業
1996   東京造形大学造形学部研究生修了
2004〜05   文化庁新進芸術家国内研修員

[ 個展 ]
1996
  「写真と構築」東京日仏学院(東京)
「風景と思考」横浜日仏学院(神奈川)
1998
  「透明な写真/transparency」アユミギャラリー(東京)
1999
  ギャラリー檜(東京)
2001
  「transparency-light, quantity」アユミギャラリー(東京)
2002
  「transparency-flow」Space Kobo & Tomo(東京)
2003
  「transparency-reservoir」Space Kobo & Tomo(東京)
2005
  「transparency」ツァイト・フォト・サロン(東京)
2007
  「vessel」switch point(東京)

[ 主なグループ展 ]
1996
  「Photography/Painting-佐野陽一+配島伸彦」ギャラリーサージ(東京)
「佐野陽一+森本太郎」アユミギャラリー(東京)
1997
  「版による」ギャラリー檜(東京)
「絶対風景の復活」Gallery工房親(東京)
1999
  「岩崎容子+佐野陽一+森本太郎」ギャラリー檜(東京)
「アーティストの周縁/Artist's proof」トキアートスペース(東京)
2002
  「光・記憶・記録」Gallery工房親(東京)
2004
  「VOCA展2004」上野の森美術館(東京)
「STILL TIME/静時画」Gallery工房親(東京)
2005
  「REALITY CHECK」東京造形大学附属横山記念マンズー美術館(東京)
「SIPA2005」Hangaram Art Museum of Seoul Arts Center(ソウル、韓国)
2006
  「新収蔵品展I」平塚市美術館(神奈川)
「私的風景・写真語り」Gallery工房親(東京)
「岡村多佳夫企画10周年記念展」アユミギャラリー(東京)
「写真の蓋然性」桑沢デザイン研究所(東京)
2007
  「subtle green-日常の微意識-」IIDギャラリー(東京)
「《写真》見えるもの/見えないもの」東京藝術大学大学美術館陳列館(東京)

[ 今後の予定 ]
2007年6月17日まで開催中
「《写真》見えるもの/見えないもの」東京藝術大学大学美術館陳列館(東京)
2007年10月26日-11月25日
「日本現代写真展(仮題)」上海美術館(上海、中国)

展示風景
「subtle green-日常の微意識-」
2007

vessel
2006〜07

reservoir
2004〜05

flow
2004〜05

flow
2003〜04

reservoir
2002〜03

展示風景 個展
「transparency-flow」
2002

quantity
2000〜01
世界自身がみている世界

佐野陽一の作品には、常に、何の変哲もない、一見ありきたりな、匿名的な風景が写しだされている。陽射しを浴びた、どこかの林のなかか山のなかか、どこに焦点を合わせるのでもない、散歩者の気ままな視点から見られたような光景だ。意図的にピンボケに撮られたようなこうした映像−−もっとも、そのプリントの発色や質感などにはひじょうに細かな神経が配られているのだが−−は、身近なようでいながらどこか遠い世界のようにも感じられ、不思議な吸引力を持っており、いちど観る者をつかんだら容易に離さない魅力をもっている。最近の個展(2007年)では、こうした写真に透明なアクリル板によってコンパクトな水槽のような形態が与えられ、また違ったかたちでその魅力が発揮されていた。
こうした風景は、ピンホール・カメラの技法で撮られたものだ(もっとも、ピンホールというにはあまりに大きい穴、とも作者は言っているのだが)。このような装置の使用は、彼の、写真や映像というものへの執拗な探求・追及から生まれてきている。すなわち、レンズを介在させず、被写体とフィルムを一対一の直接の関係で結びつけることで、視る「主体」抜きの視線を顕在化させたい、という考えが、そこにはあるのだ。
佐野の写真は、主体の「視る欲望」にではなく、いわば、「誰にみられているのでもない」風景(対象、世界)を写し撮ろうという欲望に貫かれているのだ、といえるのかもしれない。そのことによって、逆に、通常は主体と世界のあいだにあたかも透明なものとして存在している写真という装置が何をしているのか、を顕在化させようとすること。写すということで或る時間を切り取り、固有のものとして改めて再生させるというこの働き、これが何なのかを突き止めること。それは実は結局、私たちの(裸の状態での、意識下での)知覚とは何なのか、私たちは日常的にどのようにして世界を知覚しているのかを、もう一度考えるよすがにもなるのではないだろうか。
こうして、ここには誰が見ているのでもない、いわば世界自身が見ている世界とでもいうような風景が出現してくる。観客には夢の中の風景に似ている、あるいは癒される風景、とよくいわれると佐野はどこかで述べているが、それもある意味で頷けるのではないか。この、誰に見られているのでもない光景を私たちがみるとき、それは、むしろ私たちが「世界にみられている」という感覚を与える。もっといえば、「世界に包まれている」という感覚である。主体の「視る欲望」を除去したとき私たちの知覚に残るものが世界に対するこうした感覚であるとは、人間とは本来何なのかを考える重要なヒントになるのではないか、と筆者には思えてならないのである。
〜 倉林 靖/美術評論家


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