デザイナーのこれからのキャリア
第2回:DELTRO代表/アートディレクター/デザイナー 坂本政則氏
2015/04/15 UPDATE
デザインの表現がどんどん進化してきている今、デザイナーのキャリアを考えるシリーズ対談。現代のデザイン業界を牽引するトップクリエイターたちに、クリエイターたちのキャリアコンサルタントとして活躍中の小島幸代氏がインタビュー。
Vol.1膨大なインプットを蓄積し続けた少年時代から20代
- 坂本政則 さかもとまさのり
1972年静岡県生まれ。デザインファームDELTRO代表。デザイン/テクノロジーによる表現を主軸にメディアとフィールドを縦断。物事の本質や感動を伝えるべく活動を続けている。国内外の広告賞を多数受賞。
http://deltro.jp/
― 坂本さんは、とてもユニークな経歴をお持ちですよね。バックグラウンドを改めてお聞かせください。
坂本:僕の幼少時から青春時代は、映画、漫画、アニメ、ゲーム、バンドと趣味に事欠くことが無く、それら全てを縦断しつつも、絵を描いたりモノづくりをする自分を夢見ていました。絵がとても上手だった姉からの影響も多分にあったと思います。
図画工作の延長線上のアレコレはもちろん、漫画イラスト、なけなしの小遣いで組み立て~完成後も楽しめるプラモデルや、未発売タイトルのロボットをペーパークラフトで自作したり、映画「ALIEN」のタイトルシーケンスでの、アルファベットが徐々に浮き出てくる演出にかっこよさを感じたり。
静岡はバンダイやタミヤの工場がある“プラモデルの町”で、おもちゃ屋さんのドアを開けると、そこには天井から床まで一面にプラモデルの箱が並んでいる。回遊動線はギリギリまで削ってあってやたら狭い。箱をよく見ると作品ごとにデザインフォーマットを統一化されたそれらは、コンテンツごとにサイズ、タイトル、ビジュアルが違う。入荷時などは全く同じ箱が10個くらい陳列してあったりしていて、この物量のインパクトは当時の僕にとって強烈でした。
中学時代はコツコツ録りためたカセットテープのラベリングにも熱くなりました。Letrasetを代表とするインスタントレタリングシートと色画用紙を用いて、デザインフォーマットを決め、カセットテープライブラリに均一な表情を与えていく。完遂して満足するとまた違うデザインルールで作り直します(笑)。押し入れのふすまをキャンバスと見立ててレタリングしたりも(笑)。
一方で機械設計事務所を経営する父の期待は強く、小学生の時点ですでに後継ぎ人生が決まっていました。そのため、美術系への進学でなく、工業高校機械科に入学することに。
そして、この頃はポケコン(電卓みたいな形のポケットコンピューター)でのゲーム制作にも熱くなりました。方眼紙にドット絵でキャラクターを描いては、プログラムが得意な友人と連携して自称“ポケコン版R-TYPE(当時流行ったシューティングゲーム)”を作ったり。
溶接やCADといった一連の機械技術を経験した後に、工業機器をプログラム言語で動かすスキルを習得すべく進んだ専門学校では、ひたすら問題用紙を解いて言語を学ぶという授業体制に嫌気が差して中退。父との関係が険悪ななか、逃げるように地元の眼鏡店に就職し、店員として働く傍ら、趣味でオリジナル眼鏡フレームを作っていました。
当時は音楽シーンをひたすら逆行していて、フォグランプとミラーで飾り散らしたベスパにモッズコート、戦後7年のVWビートルにリーゼントとロールアップジーンズで、仲間とチームを作ってイベントを主催して走り回ったりと、とてもわかりやすい形で多感な20代前半を謳歌していました。
同時に、これらのシーンにある50~70年代のビンテージプロダクトや企業ロゴ、雑誌広告にも夢中になりました。VWチームのロゴや会報、カッティングシートレタリングの制作にMacを購入したことがきっかけでグラフィックデザインを強く意識するようになりました。
その後、5年間勤めた眼鏡店を辞め、体育会系ガソリンスタンドの店員となり、並みいる洗車+整備待ち車両を捌き、次期店長の話を上司に持ちかけられた辺りで、「これはまずい!」と真剣に人生の軌道修正を検討した結果、知り合いのつてで人生の転機ともなる印刷屋に就職することができました。Adobe Illustrator(当時5.0)で文字を打って、拡大しても印刷してもジャギらないことに、ものすごく感動したのを今でも覚えています。PostScriptやばいぞ!と(笑)。DTP、旧来の印刷フローの経験、地元名産のチラシやステッカーのデザインなどすべてが面白くやりがいのある仕事でした。