[JDN] クリエイティブを刺激するデザイン情報サイト

クリエイティブを刺激する
デザイン情報サイト[JDN]

デザインの

ライゾマティクス・齋藤精一 「建築~広告を経て、ライゾマティクスの立ち上げまで」
テーマ

「アートプロジェクト」

ライゾマティクス 代表取締役社長 齋藤精一

新しい潮流を起しているプロジェクトから、「問題解決方法のヒント」や「社会との新しい関係づくり」を探る、「デザインの波」。
記念すべき第1回目のゲストはライゾマティクス代表取締役社長であり、2015年の六本木アートナイトからメディアアートディレクターに就任した齋藤精一氏。

構成/文:齋藤あきこ、撮影:後藤武浩

東京・恵比寿を拠点に活動する「ライゾマティクス」は、インタラクティブな広告プロジェクトや先鋭的なメディアアート作品で注目されるクリエイター集団。コマーシャルとアートを両立する稀有な存在だ。代表取締役社長の齋藤精一氏は、デザインやアートの力を使い、「六本木アートナイト」や「MEDIA AMBITION TOKYO」などのアートプロジェクトを推進役として知られる存在。市民が参加できる場所と仕組みを創りあげる手腕には学ぶところが多い。オリンピックイヤーの2020年に向けて彼の挑戦を聞いた。

「まずつくってみる」
建築~広告を経て、ライゾマティクスの立ち上げまで

出身は神奈川県伊勢原市です。小学中学高校とバスケしかやって来なくて、頭の中が筋肉のような人です(笑)。大学で建築科に進んだのは、建築高校の時に見た「地図に残る仕事」というCMが心に引っかかって、デザインする仕事に憧れたんですね。東京理科大学の建築科に進学したところ、ライゾマティクスを一緒に立ち上げた真鍋(大度)と千葉(秀憲)と知り合って。それから20年間一緒にいます。

在学中はどちらかというと学校の出席率は低くて、とにかくいろんなことをやっていました。大学の先輩が発行していたフリーペーパーの編集の手伝いや、クラブで音楽やファッションのイベントを主宰したり。自分のポートフォリオには、建築だけでなくそういう活動の全てをまとめていったら面白がってもらえたみたいで、大学卒業後はコロンビア大学に留学しました。

僕がコロンビア大学でやっていたのは、図面を引いて実作を建てる建築ではなく、もっと理論的に建築を考えることでした。モルフォロジー(形態論)です。「もしも建物が生きていたら何をするか?」、「もしも都市が生きていたら何を言うか?」という研究をしていました。そこで学んだのは、建築とは、封筒のようにいろいろなものを包括できる力があるということ。ファッションも絵画も音楽とも関連していく。そういうところが建築の面白さだったんです。

卒業後は大学で助手をしながらニューヨークの建築事務所で働きました。驚いたのは、彼らがほぼ事務所に住むくらい働いているのに給料が月に4万円、ということ(笑)。この業界の構造はありえないなと思いました。ちょうど同時多発テロが起こった時期で、ニューヨークの建築業界が縮小してしまって、建築業界からは去りました。そこでコロンビア大学で研究していた、モルフォロジーの表現のためにMAYAなどのCGで表現することを始めて、それがきっかけで広告業界に入り、3年くらいニューヨークの広告代理店で働いていたんです。

ライゾマティクス・齋藤精一 (1)
齋藤精一(さいとうせいいち)
1975年神奈川県生まれ。株式会社ライゾマティクス代表取締役。建築デザインをコロンビア大学建築学科で学び、2000年からNYで活動を開始。その後、ArnellGroupにてクリエイティブとして活動し、2003年の越後妻有アートトリエンナーレでアーティストに選出されたのを きっかけに帰国。2006年にライゾマティクスを設立。建築で培ったロジカルな思考を基に、アート・コマーシャルの領域で立体・インタラクティブ 作品を制作。東京理科大学理工学部建築学科非常勤講師。

インタラクティブなプロジェクトは、2001年当時からやっていました。建築事務所の作品で、ホログラフィック風の透明なスクリーンにプロジェクションし、フロアに感圧式のセンサーを入れて、人が動くと建築がネジ曲るというものをベネチア・ビエンナーレで制作したんです。今考えるとなんという作品なのか(笑)。でもその後進んだ広告の世界にはインタラクティブという概念がまだなかったんですよね。「ライゾマティクス」という名前が出来たのもちょうどそのくらいです。真鍋がアメリカに短期留学をして、僕の家に泊まっていて色々話していたときに、二人ともリゾーム(rhizome)という考え方が好きで。「iks」とか「ism」を付けよう、ということで「ライゾマティクス(Rhizomatiks)」という名前が生まれました。

そこから会社で働きつつ、自分名義でアート作品を作り始めます。2003年に「越後妻有トリエンナーレ」の作家として選ばれて、光る風船の中が浮いているというランドスケープアートを作って。仕事をしつつ自主制作していました。

その後、2006年に帰国して「ライゾマティクス」を会社として立ち上げるんですが、その動機は、アートとコマーシャルを両立させるということでした。それまではアーティストとして作品を作るために、カフェの内装なんかのデザインをしてお金を稼いでいたので、別々にやるのはどう考えても時間の無駄だと思ったんですよね。真鍋から「今はインタラクティブっていうのが面白くて、プログラムでいろんなことができる」と言われていましたし、それをいよいよやってみようと。真鍋が30歳、僕が31歳の時でした。

だいたいこれが、ライゾマティクスを設立するまでの簡単ないきさつです。長過ぎますかね(笑)。本当にいろいろなことをやってきましたけど、このたくさんの経験が実際に戦う時の防波堤になっているところがあります。30歳になるまで考えていたのは、グラフィックデザインも、CGも、モーショングラフィックも、しまいには建物であってもなんでも、まずつくってみたいと思ったなら、とりあえずひとつひとつ実際にやってみる。そして、一回でもいいから請求書を出せるような仕事にする。若いうちはそうやって自分の出来そうなスキルを身につけて、何をすべきかはその後に考える。それが僕にとってのライゾマのイメージでした。

ライゾマティクス・齋藤精一 (2)

次ページ:「アートはお祭りに勝てるのか?」メディアアートディレクターの役割

RANKING 月間アクセスランキング

    INTERVIEW インタビュー

      SNS ソーシャルメディアサービス

      LATEST REPORT 最新レポート

        PAGE TOP