駅舎写真:松岡満男


公の仕事として世に問う成果

1989年に始まり2004年に完成という、バブル経済とその後を含む日本経済の大転換期を経たみなとみらい線の事業。変化せざるを得ない状況にあって、多くの摩擦も生じた。その只中で、土木と建築をむすびつけてきた太田氏。


太田浩雄氏

O「新しいことをやろうと思うとエネルギーが必要。それがなくちゃできない。
事業期間が長いので、流れも変わってきます。計画段階当時はちょうど、バブル経済期だったけれどそれが崩壊して、予算も削れ削れ、ですよ。当初の計画から予算のために変更せざるを得なかったものもたくさんある。新高島駅のように設計やり直し、とかね。その間に、それじゃあしょうがない、やっぱり土木で建築のわかっている人間に任せたほうがいいんじゃないかという意見も出てきた。自分がやれないことをやろうとしているのを楽しく思わない人はたくさんいるしね。
こういうものを作りたい、と強く思うヤツがいなきゃできないよな」


労が報いられたと感じたのは、開業後の評価を実感してからだった。


O「開通し、多くの人が利用するようになってから、横浜市内部からの悪い評価はなくなりました。
開業した朝、運転司令所のモニターから見てたら、セレモニーが終わり、一般のお客さんが乗車し始めてそろそろ帰ろうかなと思ったお昼前、電車から降りたお客さんが一様に驚いた表情で駅を見上げて、楽しそうにしている光景を目の当たりにしてね。よしっと思って(笑)。人を感動させる、驚かせるというのは自分も感動する。モニターでずっと各駅を見ていて、一番の満足感を覚えましたよ。


太田浩雄氏
自分の思想をどこまで、どうやって入れるか、それが大事です。 前国鉄総裁で、当時横浜高速鉄道を率いていらっしゃった高木社長の存在が、自信をつけさせてくれたと思っています。『ただ単に作るだけではだめだ。何か特色あることを考えなさい。任せる』、と背中を押してくださった。意地でも自分の力でなんとかしてやろうという気持ちになれましたね。

頭だけじゃだめ。スピードと持久力だったね。時間はものすごくかかったけれど、やはり公な仕事として世に問えるものがあるというのは結果が大きい。自分たちのプライドとか、どうやったら良いもの、新しいものができるかという戦い。このくらいでいいやとか、もうこれで十分とか、ひとりでもそう思ったらだめだよ。人の心まではコントロールできないと思う。思いが共通していないとできないでしょう。
この事業に対する評価は、街の発展とともにまだ先になるでしょうけれど、地下鉄の駅舎の役割、意義について一石を投じることにはなったと思っています」



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