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旧士族の内乱、西南戦争が終わり、中央集権国家としての体制が確立した日本は、西洋化の流れをさらに急ぎます。しかし、その実状は欧米の文物をそっくり移植するだけでした。こうした時代の中で、日本、そしてアジアを見つめ直そうとした人々に焦点を当てます。
『五重塔』〜『倫敦塔』
幸田露伴が『五重塔』を発表したのが明治24年(1891年)。露伴はこの作品で江戸の‘農・商の時代’を再発見し、職人的社会を描き出します。しかしこの時すでに(船中八策からわずか20年の間に)、民衆にとって江戸は忘れ去られた存在となっていました。その後、日清と日露戦争をはさみ、「西洋に憧れてイギリスに行き失望して帰ってきた」夏目漱石の『倫敦塔』が発表されるのは明治38年(1905年)。
この二つの作品の間に、日本の価値観は劇的に変化しました。
「日本人は、二つの戦争を通して良い意味でも悪い意味でもアジアを考えたのです」。
JapanとJesus、二つのJ
その一つ目の例として、アメリカで学んだ三人、新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造を取り上げます。
新島襄
欧米の教育事情を文部省に調査・報告した新島襄。このレポートが、日本の近代教育のコンセプトとなります。
しかし彼は政府の職から離れ、キリスト教思想を基にした自分の理想の教育を行うために、‘全身に良心の充満したるますらをのここに来たらんこと’という願いをかかげ、明治8年(1875年)に同志社英学校を設立します。
「今、この言葉を聞いても、私たちは素直に‘神’‘良心’‘自由’を思うことはしない。『五重塔』と『倫敦塔』の間で、また‘二つのJ’の間で‘ますらを’がなぜ日本になくなったか、私たちは片時も忘れないで考える必要がある」。
内村鑑三
札幌農学校出身の内村は、日本のキリスト教を作った三人の一人と言われています。
不敬事件*を起こした彼は、二つのJをそれほどまで真剣に考えていたのです。日本人に「アメリカ人宣教師のキリスト教ではなく、聖書のキリスト教を教えたい」と考えた内村。「彼にとって、キリスト教徒になることと日本人になることは重なっていた」と松岡氏は言います。
新渡戸稲造
新渡戸も同じ札幌農学校出身。彼の主張は「日本にはキリスト教に相当する素晴らしい思想‘武士道’があり、これに‘愛’を加えれば、日本はキリスト教国家としても武士道国家としても栄えるだろう」というものでした。
日露戦争の勝利で、列強が日本への警戒心を高めた時期に、新渡戸は個人として海外を訪問し‘好戦的ではない日本人’を知らせようと各地を講演してまわったのです。
岡倉天心「アジアは一つ」
横山大観・菱田春草とともに
二つ目の例は日本美術院です。
「ヨーロッパ絵画を知りながらもアジアを持ち出して描いた」狩野芳崖の『悲母観音』。「これを天心が受け継ぎ、組み直すところから明治の美術は出発する」。
東京美術学校を辞めた天心は、大観・春草らと日本美術院を興します。ここに「明治がある」と松岡氏は言います。
中国を旅して周り感銘を受けた天心が、自著『東洋の理想』で述べた‘アジアは一つ’という理想を、大観・春草らが革新的な技術によって次々と日本画として表現していきます。
たとえば、大観の『無我』は、かつての日本画にはなかった名前のない肖像画であり、『屈原』では、輪郭は線ではなく色彩の濃淡で描かれ(没線(もっせん)描写)、春草の『夕の森』では、余白は否定され、色彩のみが強調されました。
これらの作品は、いずれも今までの日本画壇の常識を覆す作品でした。
「彼らはヨーロッパを知りつつ、中国を見て水墨画の原点を取り戻した上で、新しい日本画を確立していったのです」。
あわせて、大観・春草らと並行して日本を探求しつつも志半ばで夭折した画家として、日本神話を洋画で描いた青木繁を紹介。
100年前、時代が西洋化の一途をたどる中で、日本の行く末を真剣に考え信念に基づいて表現した人たちを、見つめ直した2回目でした。
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