「私にとってのクリエーションは、挑戦」。
バイヤーとして、買い付けだけでなく、ものづくりの現場に切り込む行動力を持つ藤巻氏。何に、どう挑戦してきたのか。これまで関わってきた仕事を時系列に振り返っていきます。
■ すべて憧れ≠ゥら始まった 「私はもともとデザイン学校を出たわけでもありませんし、美術の成績も悪かった。でも、母方の親戚に芸術家が多いこともあり、家にある骨董をはじめ、様々な芸術品を目にする環境で育ちました。高校生の頃には白洲正子*1さんの本も読んだりしましたよ」。
「当時から、上映されている映画はほとんど全部見てきました。映画のかっこいい主人公に憧れていたんですね。あんな風になりたい、もてたい、という気持ちはきっとコンプレックスからだと思います」。「ビジュアルに対する憧れがいつもありました」。
■ 百貨店の体制へ、行動力で挑み… 1982年、伊勢丹入社。
「インポート業界、特に繊維業界そのものがバラバラでした。糸、アパレル、百貨店などの小売店、専門店が分断されている」時代。最初に配属されたのが、本店2Fヤングカジュアル売場でした。コンセプトがなく、客層も構想もまとまりがなかったと言います。
「たとえば今、『ビームス』といえば思い浮かぶイメージがあります。袋はこう、什器はこんな感じ、置いてある商品、内装はこうで、買いに来るのはこういう人たち。でも、伊勢丹の売場にはそういった意味での印象がなにも残らない」。「考えてみれば、まだインテリアデザイン分野が売場や世間に持ち込まれていなかった時代です。もちろん、一部のファッションデザイナーたちはすでに取り込んでいたのかもしれませんが、私たち一般大衆には浸透していませんでした」。
そんな環境にいるのが嫌になりはじめた28才の頃、マーケット調査を始めます。
「原宿や渋谷にパワーがあり『渋カジ』ファッションが流行していた時代です。人気店をまわり、服のタグに書いてある電話番号を隠れてメモし、メーカーを突きとめて問い合わせる。するとたいてい、聞いたことのあるセレクトショップに卸しています」。「しかし、訪ねて行っても、相手にしてもらえない。百貨店の人間はどうせ、売れるか売れないかでしかものを見ていないと思われているんですね。良いものかどうかの判断ができない、見る力がない、と言われて非常に悔しかった」。
店頭に並べても、売れなかったら返品するという委託販売の形式をとる百貨店商法が、こうしたこだわりあるメーカーや卸からは敬遠されていました。
「その状態を逆転させようと、上司に買い取りで契約を結んではどうかと申し出ました。でもやはり却下されて」。
そこで諦める藤巻氏ではありません。「私の独断で、委託ではない、すべて買い取る契約で売場を作ってしまいました」。
始めてみると、明らかにこれまでとは違った客層が集まります。「しかし、結果的に利益を出すことができなかったのです。もちろん、無断で契約を交わしたことも問題になり、社内処分にかけられました」。「3ヶ月、現場から外された間、半ば辞める覚悟で休暇をとり、ニューヨークへ旅行したんですが、その時に見たウィンドウ・ディスプレイの素晴らしさは今でも忘れません。『これも芸術なんだ』と感激しました。どの百貨店もすばらしく、バーニーズ・ニューヨークの存在を知ったのも、この時でした」。
「このままニューヨークに住んでしまいたいと思いましたが経済的にも難しく、しかたなく帰国しました。けれども、再び仕事へ戻る許可もおりない。出社して新聞を読むだけの毎日がいかに辛かったか」。
しかし、そんな中、伊勢丹がバーニーズニューヨークとジョイントベンチャーを組む話を聞きつけた藤巻氏は「これしかない、と思い『私しかできません』と社長に直訴しました」。
■ 伊勢丹からバーニーズ・ニューヨークへ 「29才のとき、プロジェクトの6名に加わったのですが、ファッションも分かっていない、実は英語も喋れない。ただ、熱意だけで飛び込んだんですね」。
「40日間ほど、海外のバイヤー集団に日本人一人で混じって、商品開発のためにヨーロッパへ行きました。が、英語が全く分からないので何もできない。初日からただの荷物持ちでした」。
結局、帰国より前に上司宛に通告までされてしまい、「ここから、一念発起しました。毎朝英会話学校に通い、ファッションに関する本を集めて自分なりのスクラップブックを作りながらファッション史を独学して。受験生時代よりもハードな勉強量でしたね」。「そうするうちに、言葉∞ファッションの歴史∞感性=Aそれらがあればやっていけるという手ごたえを得ました」。
「ひとつだけラッキーだったのは、バーゲン売場を担当していた頃から、生地に興味があったことです。手で触っては、これがギャバだ、とか、これはツイード、ポリエステルレーヨンだ、と覚えていたのが役に立ちました」。
■ バイヤーのクリエーション
「我々バイヤーは、3月と10月にパリ・コレクションとミラノ・コレクションへ買い付けに行きます。バーニーズとして掲げたその年のコンセプトに合わせて選び出すだけでなく、生地、色、デザインを変えて作り上げる段階まで関わる。オリジナルを作る、というはっきりした意識を打ち出すことが大切でした」。
取引先へのプレゼンテーションを重ねるうちに、「藤巻は選ぶものがおもしろい、独自の価値観が明確にある、と受け入れられはじめ、少しずつ認められていったのだと思います。プロジェクトメンバーになって、約1年半後、アメリカでチーフにあたる肩書きをもらえるようになりました」。
「本当のプロが持っているのは、常に現場への意識をそらさない姿勢。どんなにクリエイティブな人間も、お客を知ることをおろそかにしてはいけないと思います。自分が新しく作ったラインや買い付けたコレクションが、どのように反応されるかを見つめる『仮説検証』が必要です」。
「コンセプトを明確にして、どの色をどの素材で、どう売りたいのかを徹底的に議論します。買い付けたいものを選び抜く目を持っているかどうかが、勝負ですね」。
「最近、日本でもコンセプトショップは増えていますが、どこも同じイメージに見えてしまう。当時の仕事を振り返ってみると、これを売りたいという明確なストーリーがあった、と思います」。
■ 若手デザイナーへの期待と、新しい価値観の提案 92年、3年半のバーニーズニューヨーク勤務を終え帰国、伊勢丹に戻ります。
「バイヤーという立場から、若いデザイナーの売り込みを受ける機会が多くありました。しかし、自由に動かせる売場を持っていなかったので、彼らに対してアドヴァイスしかできない。そんな自分がなさけなくて」。
「それなら、個人で活動しているデザイナーを集めて売場を作ろう、と『解放区』を立ち上げました」。
現在使われている『解放区』の場所は、もともと売場にしないことが前提にされた、宣伝部所有のギャラリースペースでした。ファッションだけでなく、新進気鋭のアーティストに与える空間にしておくということが、伊勢丹創業当時からの掟でしたが、「景気が悪くなってからは、きちんと維持できず、活気がなくなっていたのは事実でしたから」。
「解放させよう、という気分と思いつきのイメージで時代のニュアンスを表したネーミングが『解放区』です」。「多くのデザイナーを集めるにあたって、最低限の条件は決めました。デザイナーを尊敬する気持ちはいつでもあります。でも、人に着せて喜ばれる服を作って表現するのがデザイナーです。ある程度自由に作らせながらも、厳しい目で選別しました」。「人の心に潜んでいる欲望(=潜在的なニーズ)を呼び起こすのが、デザイン。人にエネルギーを与える力があると信じています」。
96年には、新しい婦人服売場『リ・スタイル』を起こします。
「多くの人が集まる百貨店には、多方向のテイストが求められて当然です。でも、女性を年代で区分する考え方が嫌で、活気がなかったインテリアフロアを、半ば乗っ取るように作りかえました」。「モードよりも、自分らしいスタイルを確立していくという意味をこめた、スタイル・リミックスの略が『リ・スタイル』です」。
■ プロの仕事はプロに求める 地下2階にライフスタイルをテーマにした売場を作る企画が持ち上がったときのこと。「すでに参画していたデザイナーの方向性が少し違う気がして、自ら名乗りをあげました」。
グッドプライス、グッドクオリティ、グッドセンスをキーワードに、フランス語の頭文字をとった『BPQC』。
「一つのものにとらわれないで、全体を見る視点で考えましたね。まず、カフェが欲しかった。思い描いたのは、フランスの、シャレたさりげないカフェです。そのカフェでハガキを書く人がいるな、と思えば、近くにポストカードの棚を置く。そうすると次には、パーソナルギフトにできる花を扱いたくなり、匂いがほしくなり、音も欠かせなくなる…」。
伊勢丹が持っている機材やお金をハードとするならば、ソフトはデザイン。「社外の人をどんどん巻き込みました。ワタリウム美術館*2の『オン・サンデーズ』にはポストカードを交渉し、ひと束数百円で作れるフラワーデザイナーがいると聞けば、すぐに会いに行き話をまとめ、ネイルケアが流行りそうだと直感すれば、コーナーを増やす。音楽は、『ボンジュール・レコード』を誘いました」。
「この人にまかせれば安心できる、この人のセンスを買う、そんな心づもりです。一般の消費者がセレクトショップに対して寄せている信頼感と同じですね」。「良い品を適正な価格で展開するこの売場には、生活を本当に豊かにできるものをどう提案できるか、という大きなテーマを掲げているのです」。
■ これからのファッションを変えるクリエーション 「ファッション産業は日常のエンターテイメント。生活の中で人を楽しませるためにあるのではないか」。
20年間のバイヤー経験と、プロデューサーと呼ばれるようになった最近の活動を通して感じていることがあります。
「ファッションは、業界の人たちだけのものであってはいけません。生活者に向けたデザインワークの方法を見つけていかなくてはならない時代にきていると思います。流行り廃りといった、一つの現象だけに注目するメディアからの見方も変えさせるような、ファッションデザインを仕掛けていきたい」。「日本独自の良い素材、日本のデザイナーとのコラボレートを強く意識しています。トラッドをベースにした、質の良いスタンダードを構想中です。音楽に多様なジャンルがあるように、ファッションでも、もっと異なる分野やテイストが混ざりあっていい」。
様々な出会いを大切にしてきた中に、バッグの『キタムラ』とのつながりもありました。
「出身地の港町・横浜が、伝統や文化を活かしきれていないのを見ると、もどかしい気持ちになります。私が高校生時代、元町には憧れの女性がたくさん歩いていたのに、今は昔の若者しかいない町になってしまって。『キタムラ』が横浜でできることを、本格的に、根本から変えていくために役員として関わることにしました」。
特殊な素材を扱える魅力もあります。「たとえば、クロコダイル。貴重で高価なばかりに、なかなか手が届かない革だというイメージが拭いきれません。しかし『キタムラ』でなら、これをカジュアル・ダウンできます。ジーンズに合わせてかっこよく持つバッグにするのもいいと思う」。
■ 垣根を超える、「挑戦」 「現代は、衣食住をひとまとまりで豊かに考える時代になってきています。デザイナー、プロデューサー、ディレクターが一つの分野にとどまっていられない、つまり作り方も売り方も含めて考えるのが、クリエーターの役割だと思うのです」。
「スピーディーに流行を追う反面、スローライフに充実を求める生き方もある。お金の使い方を分散させながら、自分なりのスタイルを確立する日本人が増えていっているのでしょう」。「そういった現象に関心を持ち続けて、私なりの挑戦をしていきます」。
2002年7月6日、桑沢デザイン研究所にて
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 藤巻 幸夫 氏
ふじまき ゆきお
ファッションプロデューサー
株式会社キタムラ 専務取締役
株式会社キタムラ
http://www.motomachi-kitamura.com
*1白洲正子・しらすまさこ(1910-1998)
文筆家。樺山伯爵家の次女として東京に生まれ、アメリカ・ニュージャージー州のハートリッジスクール卒業後、白洲次郎氏と結婚。戦後より、小林秀雄、青山二郎らと親交を結び、みずからも造詣に深かった能、着物、骨董、仏教などの執筆活動を行った。
*2 ワタリウム美術館
東京・外苑前にある、コンテンポラリーアート専門美術館。1990年開館。建築は、マリオ・ボッタによる。『オン・サンデーズ』はそのミュージアムショップ。
監修・大豆生田 氏
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