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私のなかのデザインを追い求めて日本経済がバブルと呼ばれ始めた1988年、原美術館でデザイナーをしていた私は、1年間休職してイタリアに渡った。それは、経済の発展に伴い日本で急にもてはやされてきたデザインの扱われ方に疑問を持ち、改めてデザインを見つめ直したいという思いからだった。
留学先としてアメリカやヨーロッパの国々がすぐに頭に浮かんだが、その中から人間味溢れるイタリアデザインに惹かれドムスアカデミーを選択。というのはドムスのパンフレットにある「ミラノデザインを活性化するために世界中から学生を集め、彼らのバックグランド、すなわち世界各国の文化とイタリア文化が出会い、新たに統合して、21世紀のデザインの創造を目指す」という記載に、私のなかの何かが触発されたからであった。
実際、1988年度のドムスアカデミーには多種多様な国々から学生が来ており、建築・インダストリアルデザインコース26名中イタリア人はわずか3名、他はフランス、スペイン、イギリス、西ドイツ、トルコ、アメリカ、メキシコ、ブラジル、タイ、日本など総16ヶ国。
授業は2週間に1回課題が出され、レポートやデザイン画、マケットの提出とともに全教授の前でプレゼンテーションを行うハードスケジュールだったが、様々な出会いや発見のある最高に楽しい1年間であった。そこで私は、デザインにとって大切なもの、人間にとって大切なものが、何であるかを学んだ。
大切なもの――それはイデア(idea=考え、思考、概念、観念)とオリジナリティ、そして人間に対する愛情だと確信した。デザインは表面上の装飾というだけではなく、その根底に存在する、人々と夢を共有できる新たな生活や人生への提案であると・・・。それには自分自身が夢中になって楽しめることが不可欠であり、それが人を感動させる原点だと気づいた。

当時の合川氏
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 現在の合川通子氏(左より2番目)
合川通子
1979年 女子美術大学芸術学部絵画科卒業、卒業制作賞受賞。
1979年より1997年まで原美術館勤務、1988年に1年間休職しイタリアに留学、ドムスアカデミー(Domus Academy)建築・インダストリアルデザイン科修了。
原美術館では、MI計画、グラフィック・エディトリアル・プロダクト等のデザインやミュージアムショップの企画、インテリアデザイン、商品開発等、美術館に関するすべてのデザインに携わる。
また展覧会企画「倉俣史朗の世界」を担当、『倉俣史朗』の編集を行う。
1998年にstudio micico(ステュディオ ミチコ美術デザイン事務所)を設立、美術館やアートスペース、大学、企業のグラフィックやエディトリアルデザイン、美術やデザイン書籍の編集を行う。
主な展覧会デザインは「スタジオ・アズーロ」「音のはじめ音楽の創まり」「エットレ・ソットサスとその仲間たち」他、多数。 |