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《ふくらんだりしぼんだり》 2006年
パラシュート布に着彩、コンピュータ制御の送風機 / サイズ可変
Courtesy: Marian Goodman Gallery Paris / New York
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館
【 写真 12 】
臓器や手足など人体のどこかのパーツを思わせる、見憶えのあるようなないような物体たち。本来なら内と外に棲み分けているはずのものが、おもいおもいの縮尺で渾在し、各々のリズムで呼吸するように膨らんでは、かたちを取り戻す直前に力尽きて萎み、を繰り返しています。人体の活動のなかで唯一、随意と不随意の二種類が存在する“呼吸”。ここでおこなわれているのは果たしてどちらなのでしょうか。物体の素材はパラシュートクロス。その素材がまどろみの中で空への属性を思い出して吐き出した夢が、物体を膨らませているのかもしれません。身体いっぱいに充たせば空に還ることができるのに、いつもなにかがあと一歩足りないのです。
《たよったり自立したり》 1995-1996年
ぬいぐるみ、ゼラチン・シルバープリント、羊毛、縄、布、網、蚊帳、プラスチック、ランプ / サイズ可変
Dimitris Daskalopoulos Collection, Greece
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館
【 写真 13 】
展覧会の最後に辿りつくのは、黒や赤の糸が垂れ込める鬱蒼とした森。ところどころに吊された裸電球が、がらくたのようにも見える古い想い出たちを絡め取った網や、額に入った懐かしい顔、この世界の骨格を成すように連なる言葉たちに虚ろな光と影を投げかけています。伸ばしかけてやめた手。ほつれてもつれて見向きもされなくなった関係。忘れたと思っていたものも、諦めたつもりのものも、全部ここにありました。
無骨な灯りの揺らめきのなかに見出されるもの。それは、裸足のまま鏡の欠片や小鳥を踏み越えながらここまでやってきた、毛皮やビニールなどのつぎはぎでできた皮膚のような衣を纏いながら立ち尽くす自分の姿です。それでは、それを森の外から眺めている、まるで意識と感覚だけのようなこちら側の自分はいったい誰なのでしょう。どこか始まりのあたりで皮を脱ぎ捨ててきてしまったようにも思います。早く引き返さないと 誰かがそれを被ったり、勝手に他のものと結合を始めたりしているかもしれません。
しかし、ハート形の輪郭を持つこの森はあまりにもあたたかく居心地がよく、此処を目指して旅してきたことは明白に思われるし、まだ鑑賞を始めてからいくらも経っていないようにも感じられ、もう少しここに居てもいいかなとまどろみたくなるのです。
インナーワールドを旅するようなメサジェの作品群。“使者”は遠くの世界からやってくるのではなく、自分の内にずっと在ったことに気づかされます。赤と黒の内的世界を擁するがゆえ、人間が希求する外の世界、海や空は青くあるのかもしれません。そして聖性を託すシンボルを思い合わせると、個人的にその使者には、青い鳥というよりも赤い魚、というイメージを付与したくなります。
人間としての日常生活を送るうえで欠かせない意識や感覚、積み上げてきた価値観。メサジェはそれらの手綱を緩めさせることで見えてくるものを、知らないふりをしていたり分けておいたつもりのものをすべて同じ俎の上に載せて提示してきます。食べても食べなくても、残しても残さなくても、そのまるごとが自分であり、そう認める限り、どんな苦しみの底でも、同じ場所に希望が寄り添っているのです。
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【 12 】 《ふくらんだりしぼんだり》 2006年
パラシュート布に着彩、コンピュータ制御の送風機 / サイズ可変
Courtesy: Marian Goodman Gallery Paris / New York
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館


【 13 】 《たよったり自立したり》 1995-1996年
ぬいぐるみ、ゼラチン・シルバープリント、羊毛、縄、布、網、蚊帳、プラスチック、ランプ / サイズ可変
Dimitris Daskalopoulos Collection, Greece
撮影:渡邉 修 写真提供:森美術館

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