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<JDNリポート>
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■生い立ち〜京都市立美術専門学校へ 田中一光氏は、1930年、蒲鉾の製造業を営んでいた商家の長男として、奈良市に生まれました。その後、京都で学び、大阪で仕事を始め、東京に移った田中氏。古都、商いの都、そして大都会。田中氏のデザイン感覚は、氏の歩んできた地域性から育まれていったのでしょう。 映画やレビューに夢中だった、幼い頃の一光少年。県立奈良商業学校時代は作文が得意で、工作はむしろ不得手だったそうです。戦後の混乱期、卒業式の送別会準備係の担当となった田中氏は、学校の倉庫から戦前に作られたと思われる紅提灯やピンク色の造花の桜を見つけます。そのみずみずしさに、戦時中の灰色の世界とは全く異なった感動をおぼえ、京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)への進学を決意しました。 美術学校では図案科に合格。まだデザインという言葉はもとより、商業美術を正課にしている美術学校も無い時代です。授業よりも演劇部「アトリエ座」に熱中。ここでは役者になる事が多く、舞台美術をやりたいという気持ちはあまり無かったそうです。アトリエ座には粟辻博氏も在籍しており、二人で宝塚のレビューに入り浸っていました。 ■就職〜日本デザインセンター設立 卒業後は鐘淵紡績に入社。52年には産経新聞に移ります。永井一正、木村恒久、片山利弘の各氏とデザインの研究会「Aクラブ」を作ったのもこの頃です。当時の大阪のデザイン界のスター、早川良雄氏の作品には強く惹かれ、近鉄の駅で終電まで待って早川氏作のポスターを盗んだこともあったそうです。54年には、実質的な処女作といえる、タンゴ「オルケスタティピカ カナーロ」のポスターで、東京ADC銅賞を受賞。注目を集め始める中で、時代の空気が東京で動き始めている事を察し、57年に上京。広告デザインの「ライトパブリシティ」に入社します。 ライトパブリシティでは、次々に広告を制作。中でも東洋レーヨンの広告では、向秀雄氏とプロジェクトチームを作り、一つの会社の宣伝広告全てを担当して、デザインポリシーを確立していく、というスタイルを採用。日本の広告デザインの先例となりました。その「東レテトロン」の新聞広告は、朝日広告賞を受賞しました。 52年からは桑沢デザイン塾でグラフィックデザインの講師を務めます。生徒と田中氏との年齢差も少なく、兄貴のような存在で接したそうですが、当時の教え子からは青葉益輝氏、遠藤享氏、太田徹也氏、長友啓典氏など、現在大活躍中のデザイナーが多数輩出されました。 「新しいデザインの時代において、各社の宣伝部を共同で持つ」という趣旨で、日本デザインセンターが設立されたのは60年。亀倉雄策、原弘氏、山城隆一の各氏が中心となって、多数のデザイナーが参加する中で、田中氏もライトパブリシティから移籍しました。当時はデザイン興隆期で、月給15万は野球の大スターと同程度であったと言います。非常にハードに仕事をこなす中で、横尾忠則氏が入社してきたのはこの頃でした。田中氏は、暗黒舞踏の祖・土方巽のポスター制作に横尾氏を引き合わせ、それ以後、急速に横尾氏の才能が開花していきました。 ■独立〜 63年に独立、田中一光デザイン室を主宰します。東京オリンピックを控えて、デザイン界は盛り上がっていったこの時期。勝見勝氏や亀倉雄策氏が中心となってプロジェクトが作られ、田中氏はピクトグラムや参加メダルの背面のデザイン(表面は岡本太郎氏)を手掛けました。 その後の田中氏の活躍は、周知の通りです。「歴史を一つの建物で展示する」という過去に例の無かった難題に挑戦した、大阪万博・政府館1号館の展示設計。ピンク、ベージュ、白の3色のストライプで、現在でも赤坂見附の顔として定着している、赤坂東急ホテルの外装デザイン。科学の持つ知的クールさを三角形で表現した、「科学万博─つくば'85」のシンボルマーク…。良く知られている仕事としては、セゾングループ全体のアートディレクションや、「無印良品」の企画・監修もあげられるでしょう。 消費者と密接な位置にある、日常のデザインを手掛けるクリエイティブ・ディレクターの役割として、田中氏は語っています。 「私のデザインの基本的な考え方は、企業とデザイナー、社会とデザイナーという双方向のチャンネルを常に確保しておくという点である。クライアントとの関係だけでデザインするだけでなく、消費者や観客の立場でデザインする。常にその三角形を意識しながらそれぞれを頻繁に往復することで、デザイン本来の姿に戻れると思っている。」(田中一光自伝 われらデザインの時代 白水社) ■悼む 日本のモダンデザインの頂点を確立したともいえ、「日本の伝統と現代性を融合させた」と評価されていた田中一光氏。その業績と人柄を惜しむ声は、各マスコミに数多く寄せられました。 横尾忠則氏(画家・グラフィックデザイナー) 私がデザインの道に入り、個性を確立できたのは一光さんのお陰でした。日本的な色彩、造形を西洋的な方法でまとめた仕事で、戦後のデザインの方向性を確立された。後輩には厳しく、優しく接して、個性を伸ばして下さったし、世の中のデザインに対する認識を定着させる努力もされた。(1/11 朝日新聞) 福田繁雄氏(グラフィックデザイナー) ショックです。日本のグラフィックデザインは亀倉雄策さんたちが作り上げたのですが、それをしっかり受け継いで世界に向けて発信したのが田中さんです。各国で個展を開き、賞を受けられました。グラフィックデザインが揺れ動いている時代ですから、もっと活躍してもらわなければいけなかった。先に立つ指導者を失い、大変なことになったという気持ちです。(1/11 毎日新聞) 松永真氏(グラフィックデザイナー) 大きな目標だった。かつて田中先生の事務所を「デザインの灯台」と呼んでいた。あらゆる角度から物事の位置を把握できる方で、文章もうまかった。(1/12 朝日新聞) 柏木博氏(デザイン評論家・武蔵野美術大学教授) 日本のデザイン史では原弘、亀倉雄策に次ぐ世代で、日本的なものをモダンにアレンジすることで際立っていた。まさに日本のグラフィックデザインを代表する人だった。柔和な人柄で、私にも「必要な資料はいつでも見に来てください」と声をかけてくださるなど、後輩の面倒見も大変よかった。(1/12 朝日新聞) <参考文献> 『田中一光自伝 われらデザインの時代』白水社 2001 |
![]() 桑沢デザイン塾の 開塾記念公開講座にて (1997年9月6日) → リポート ![]() 代表的なポスター 「Nihon Buyo UCLA」(中央) ([デザインの風]展にて) → リポート ![]() 第6回桑沢賞 桑沢特別賞を受賞 (1998年6月6日) → リポート ![]() 「未来数寄」展では 自作の茶器も発表 (2001年1月) → リポート ![]() 第14回勝見勝賞受賞 (2001年10月30日) → リポート |
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