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 ウェブスカイドア 現代篇
 


上野慶一
Ueno Keiichi


[ 略歴 ]
1956
  東京生
    82年より額縁屋にて徒弟。
    現在は三多摩にある零細額縁工房の職人。

[ 個展 ]
1991
  コバヤシ画廊 (東京)
1992
  ギャラリーなつか (東京)
なびす画廊 (東京)
1995
  ギャラリー16 (京都)
2000
  ギャラリー人 (東京)
2003
  現代ハイツギャラリ− (東京)
ギャラリー二葉 (東京)
2004
  ギャラリーappel (東京)
シネマアートン (東京)
DEE'S HALL (東京)

[ 主なグループ展 ]
2003
  「美と術」高馬 浩+上野慶一 二人展 藍画廊 (東京)
2004
  「版画を読む」 文房堂ギャラリー (東京)

[ 今後の予定 ]
20年ほどブランクのあった油彩画の制作を最近再開したのでこれを継続。
井の頭公園等、路上での個展を中心に活動する予定(雨天休み)。

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年

「ルヴハイ」
2004年
絵画=空の容器

上野慶一が継続しているシリーズのひとつに、「ルヴハイ」がある。何のことかと思ったら「ルヴリョーフの杯」の略だそうだ。タルコフスキーが映画の題材にしたことでも知られているロシアのイコン画家、アンドレイ・ルヴリョーフの、代表作「聖三位一体」の絵の中心に置かれている杯である。この杯の形は入れ子状に何回か繰り返され、絵の構図の要になっている。上野の「ルヴハイ」(そういえば初期の個展ではきちんと「ルヴリョーフの杯」と題されているものもある。言葉自体がいつしか変形を遂げたのだろうか)は、杯ないしコップの形を、重ねたり(縁を、あるいは水路で)つなげたり、というふうに連鎖状に描いたシリーズである。絵画は、任意のシステムの連鎖と変位、および他システムとの相互干渉から成立する、というような考え方が、こうしたシリーズの背景にある。このような思考はまた、他のシリーズ、たとえばミレーが描いた「種蒔く人」の2つのヴァージョンのあいだに「ありえたかもしれない1,000枚のドローイング」を描く、という「パラレルワールド・種蒔く人」にもみられるものだ。こうした連鎖のシステムは、それぞれの絵画の構図やマチエールを、様々なヴァリエーションによる実験の積み重ねのなかで、自由度が高くかつ必然的なものに、そして開かれていながら強固に完結したものにし、表現の強度を実現させていく。こうして不思議と興味深い、質の高い絵画が生み出されている、というわけだ。
上野には「空の王座」という立体のシリーズもあるが、彼にはよほど杯、コップ、というような「器」状のものが気になるのだろうか。「種蒔く人」にしても足を「底」に見立てる試みもあって、これも器への興味ととれる。彼自身は根拠がないところ、「無底」というところから根拠を作る、という説明をどこかでしていたが、筆者にはむしろ器が「空」であるというところが面白く感じられる。聖杯といい、あるいはキリストの神性の容れ物としてのマリアといい、キリスト教のシンボルには、容器が空であるところから来る聖性、というものがあるような気がするが、同じく絵画というものも、中身が空だからこそ聖性がまといつくのだ、といったら言い過ぎだろうか。上野の営みは、空の容器が同時に別次元の空間の充溢でもあることを示そうとする試みなのであろう。
〜 倉林 靖/美術評論家