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紫牟田和俊
SHIMUTA Kazutoshi


[ 略歴 ]
1957   福岡県に生まれる
1982   東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
1984   東京藝術大学大学院美術研究科壁画第2研究室修了
1988
  DAAD給費によりドイツに留学(ハンブルク美術学校においてF.E.Walter教授に師事する)
1991
  東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程満期退学

[ 主な個展 ]
1982
  ギャラリー葉(東京)
1983
  ギャラリー葉(東京)
1984
  かねこ・あーとG1(東京)
1985
  秋山画廊(東京)
1986
  かねこ・あーとG1(東京)
1987
  秋山画廊(東京)
1991
  東京藝術大学陳列館(東京)
ギャラリー美遊(東京)
1992
  モリスギャラリー(東京)
1993
  ギャラリーgen(埼玉)
モリスギャラリー(東京)
1994
  ギャラリー美遊(東京)
1996
  GALLERY360゜(東京)
1997
  秋山画廊(東京)
1998
  鎌倉N氏邸(神奈川)
2000
  T&S HOMEギャラリー(東京)
2002
  T&S ガレリア「横溢するカルナシオン」(東京)
2005
  プラザ・ギャラリー(東京)
T&S HOMEギャラリー(東京)
2006
  秋山画廊(東京/11月予定)

[ 主なグループ展 ]
1984
  ギャラリーアペア(東京)
1991
  「色相の詩学展」/川崎市民ミュージアム(神奈川)
1992
  「1stTRANSART ANNUAL」/横浜ビジネスパーク(神奈川)
1996
  「レクイエム−榎倉康二と33人の作家−」/川口現代美術館(埼玉)
1997
  「鍵のかかった部屋」/ギャラリー美遊(東京)
2000
  「Framing」/GALERIA  RASEN(東京)
2001
  「拡張する絵画−色彩による試み」/佐倉市立美術館(千葉)
「発生の場/ドローイング」/東京藝術大学陳列館(東京)
2003
  ギャラリーアペル(東京)
2005
  「D/Jブランド」/東京藝術大学美術館(東京)
2006
  「LVRFI」/スタジオ・オーノ(神奈川)

左より
16 pious yellows
16 pious whites
16 pious blacks

2001

16 pious colors
(眺望と転移)

2001

16×16×2 pious colors
(全ては指標に置き換えられる まるで なにもなかったかのように)

2000

16 pious colors
(ヨルノイリヤノザワメキ)

2000

壁面作品
ツィムツム2A
床置き作品
TORSOHOUSE
(無為の集落)

2005

壁面作品(小)
ツィムツム2A
ツィムツム2B

壁面作品(小)
四足2A
四足2B

壁面作品(小)
TORSOHOUSE
2005

16 pious colors
(横溢するカルナシオン)

(部分)
2002

眺望と転移
2002
色彩の原型的な現前

紫牟田和俊の近年の主要な作品の形式は、均一に色が塗られた板を色彩チャート図のように並べ構成したもので、多くの場合は16枚で形成される。互いに異質な色どうしの配列もあれば、同じような色調で統一されることもある。こうした作品のヴァリエーションとして、展示会場の壁面に色を塗り、絵画平面のように矩形の塗り残しをつくるものがあったり、木の箱に板を入れてその前面に、板に使用された色を表のように小さく示すもの、棒状のものや箱、テーブルを用いたインスタレーション、などがある。このように作品はさまざまなかたちをとるが、そのどれもが色彩の存在、実在、プレゼンスをめぐる作品であることは間違いない。
なぜ色彩に惹かれるのか? 紫牟田はその問いに答えて、「私は色の抽象性に惹かれる」といっている。「色彩はさまざまなものを想起させる。しかし色彩そのものは抽象的だ。」「塗料の色→それは何も指示していない。それでも私たちは、色を記憶したり、思い浮かべることができる」と。あるいは、色彩の抽象性は、形や概念の抽象性より抽象的なのだ、とも。おそらく彼にとって色彩とは、グノーシス派やカバラにおける流出・放出の観念にも似て、そこから一切の具体物が分節され流出する、ある絶対的領域、原型的なものを象徴しているのではあるまいか。この世界では「存在」への志向という共通性を通じて、原型と具体物は相互に浸透しあい共存しており、具体物は未在の・無限の可塑性をも内包している。そのとき「私」と「外部」も相互に貫入し、形成しあう。紫牟田の作品における色彩の現前性は、私も外部も「在る」ことの充溢によって満たされている、スピノザ的な世界を示している、といえるかもしれない。
このような色彩作品は、望みの色を得るためにも(発注ではなく)自分で色を塗る手作業のなかで生み出されるということだが、考えてみるとこれこそが作者の作品思考に一致した制作態度だといえるだろう。紫牟田はこうした具体的な「仕事」のなかで、色彩の絶対性に直に触れ、それと交感しているのではないだろうか。これはきわめて現代的な仕事であるが、また中世の教会芸術家の仕事にも似た、無名性において世界に対峙する敬虔な仕事、という側面もおそらく持っているにちがいないのである。
〜 倉林 靖/美術評論家