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野村和弘
KAZUHIRO Nomura


[ 略歴 ]
1958   高知市生まれ
1988   東京芸術大学美術学部油画後期博士課程退学後、ドイツ学術交流会(DAAD)奨学生として渡独
1990   デュッセルドルフ美術大学(Kunst akademie)修了
1993   帰国

[ 個展 ]
1994
  YBPヨコハマガレリア(神奈川)
1997
  秋山画廊(東京)
1998
  「地下室」秋山画廊(東京)
1999
  「吃音者」秋山画廊(東京)
2000
  「fucking」南天子画廊(東京)
2001
  「collector’s room」T&S Gallery(東京)
「service」南天子画廊(東京)
「エヴァは何回りんごを食べる?」タグチファインアート(東京)
2002
  「service2」南天子画廊(東京)
2003
  「foreword」南天子画廊(東京)
「レオナルド」タグチファインアート(東京)
「collector’s room2」T&S Gallery(東京)
2004
  「鐘なき礼拝所」人形町ヴィジョンズ(東京)
2005
  「銀河」タグチファインアート(東京)
「johnna」南天子画廊(東京)
「ライオン」タグチファインアート(東京)
2007
  「type J」void+(東京)
「trespass」南天子画廊(東京)
「待降節」いわき市立美術館1Fロビー(福島)

[ グループ展 ]
1996
  「レクイエム」斉藤記念川口現代美術館(埼玉)
2004
  「モノづくりの逆襲」神奈川県民ホールギャラリー(神奈川)
2005
  「D/J Brand」東京芸術大学 大学美術館(東京)
「ゼログラフィーと70年代」Arf Space by Fuji Xerox(東京)
「絵画の力−今日の絵画」いわき市立美術館(福島)
2006
  LVRFI studio ONO(神奈川)
Printed Matters 2006 Artists’ Book 東京パブリッシングハウス(東京)
「スーパーエクスタシー至福への旅路」神奈川県民ホールギャラリー(神奈川)

[ コレクション ]
千葉市美術館(千葉)
富士ゼロックス株式会社(東京)


untitled(mensch)
2002

untitled(na,cb)
2003

johnna
2005

untitled(grapes)
2002

type J
2006

johnna(trespass)
2005

1/973×3
2002

eva
2006
「全体性」と「個的なもの」の往還

野村和弘の仕事は、絵画、オブジェを使ったインスタレーション、パフォーマンスと、表現形式からいっても内容からいっても多岐にわたっているが、それらはどれも或るひとつの、共通の問題意識の展開であるといっていいだろう。この問題をひとことで言い表すなら、「システム的に反復してつくられるものと、そのなかの微妙な差異」ということになるだろうか。
 たとえば野村のドイツ滞在中1989年から始められ、500点を予定総数とし現在まで400点ほどになっている、一貫して続けられている絵画のシリーズがある。筆による微細な色点(赤、黒、黄、橙、緑の5色)によって、1本の樹木になった2つずつの3種の果実(レモン、オレンジ、トマト)が描かれる。点の総数は621個と決められていて、使用した色の数の内訳が画面下部に示される。色点自体が小さいので画面は近くから見ない限り背景の白一色にしかみえない(近年には橙を背景にしたものもある)。またこのシリーズ内での各作品の差異もひじょうに微細なものでしかない。あるいは、やはりドイツ滞在中に作品に使用するために動物園で買った、小さな動物のフィギュア973個のうちから見つかった、不完全な形態のもの3個を使用し、さまざまに展開させるシリーズがある(これは後には、映画『ジョニーは戦場へ行った』の、手足を失った主人公 Johnny の女性名から、「Johnna」 と呼ばれた)。さらに、リカちゃん人形その他の人形やフィギュア、飛行機等の乗り物の模型、野菜や果実をかたどったおもちゃ、本、などのオブジェが、上述のような問題意識の展開のために使用される。
 これらは何をあらわしているのか。記号論、あるいはドゥルーズやデリダの哲学にみられるような、すべては差異(差延)である、というような考え方を持ち出してもいいだろうが、野村の営為から受ける印象は、むしろうそうした「差異の哲学」の一般的理解とは逆に、全体的なシステムのなかのほんの僅かな差異やズレのうちにこそ、還元不可能な「個的」性格、「もの」の本質性がある、ということなのだという気がしてならない。さきに挙げた500点の絵画のシリーズにしろ、背景のシステム的な全体性ゆえにこそ「個」が存立する、というべきか。その全体性のネットワークは1点の作品を目の前にする者にとって、不可視で概念的なものにとどまるが、この不可視で概念的なネットワークそのものの強靭さ、その広がり、全体と個別との往還が、個の「個的」性格を同時に保障するのである。いずれにしろ野村の作品はそのストイックな外観から、見る者に途轍もなく広がる思考・概念を誘発させるのだが(その一端は例えばスコラ哲学における唯名論と実在論の論争の如くである)、こうした制作/思考の営為が一貫した強度をもって続けられていることに、私たちは驚嘆を感じざるを得ないのである。
〜 倉林 靖/美術評論家


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